贈り物(20120312)

一週間以上前になりますが
夢を見ました


巨大地震が来て津波が東京湾から川をさかのぼってくる。夫は私を連れて一緒に逃げようとする。でも私は走れない。いつの間に水が押し寄せたのか私達は家具や雑多なものと共に流されている。手が離れる。これは夢だ。それでも私は叫ぶ。
私はいいから。先に逃げて。子供たちに伝えて。私が愛していたと。これからもずっと愛していると。

そこで目が覚めました。



笑っちゃう…まるで安手のドラマみたい。夢だと判っていながらあんなことを言うなんて。このところ地震が多いし、先だって息子が「いざというときのために車椅子を用意しとかないと、お母さん走れないだろ」なんて、珍しく殊勝なことを言うから…

それから私は気づきました。
これは、答えなのだ。十年間抱き続けてきた問いへの答え。


十年前、私は緊急入院し、一年間子供たちと離れ入院生活を送りました。その時の私の肝細胞を見たお医者様は、「この人この肝臓でまだ生きてるんだよ」とおっしゃったそうです。
知らぬ間に死と隣り合わせしていた。辛いとは言え普通に日常生活を送っていたのに。

病院のベッドの上で、私は考えました。
このまま死ぬとしたら、私は子供たちに何を残してあげられるのだろう。
所謂「背中を見て」もらうことはもうできない。こんなことなら仕事を辞めて家中をもっとピカピカに磨き、毎日笑顔で帰宅を迎えてあげていればよかった。もっと一緒にお菓子を作りたかった、アンサンブルしたかった、鬼ごっこしたかった…
上の娘は中学に入ったばかり。これからは悩むことも多いだろうに、きっと表に出さないだろう。夫や義母は気づいてくれるだろうか。
二番目は、昨年から急に変わってしまった。変わり者と評判の先生のクラスになってから。「裁判」に掛けられたこともあったらしい。「みんなだよ」と言っていたけれど。
下の子は入学したばかり。私のことも忘れてしまうだろう。いや抱かれなかった記憶は残るのだろうか。ごめんね、抱っこして自転車に乗せてあげることが随分前から出来なくなって。よじ登るの大変だったね。
想いは様々に駆け巡りましたが、自分が何を残してあげられるのかは思いつきませんでした。

何もしてあげられない

病室に道具一式を持ちこんで、次女のエプロンと息子のダンガリーシャツに名前を刺繍しながら、私は考え続けました。

「愛してる」なんて抽象的な言葉じゃなくて、教訓めいた話でもなくて、でも、これから生きていく上で想像もしなかった困難に出会った時に、其処に帰って来られるような、私の代わりに支えてくれるような、強い言霊を秘めた言葉…
私自身、たくさんの言葉に支えられてきたけれど、どれもそれを言われた時の状況や言ってくださった方の思い出が伴ってこそ光を帯びるものでした。


そうこうするうちに私は何とか退院しました。何もしてあげられない状況は変わらないのに、復帰してしまったポジション。想いは困難な日常の中で付箋をつけて机上に置いたまま。「言霊」も「背中」もどこへやら
反抗期の子供たちと売り言葉に買い言葉、思うようにならない身体に息子を連れて夜の川を見つめること数回、泣きながらの平手打ちなんて何の効果もない「最終兵器」だと発見。

そんな十年間の中で、私は感じてきました。
人を愛することは必ずしも笑顔や美しいものとは結び付かない。怒りも悲しみも呑み込む貪欲さ。岩壁のように厳しく荒削りで人を追い詰める。けれども、それは全ての価値基準や知恵や良識を覆す。だから、私は夢の中で「これからもずっと」と言ったのでしょう。
子供たちがこれから先何をするか、どんな大人になるか、夢の中では死ぬ設定になっているらしい(!)私には確かめる術はない。けれども、何か起こる前から全てを赦し、ありのままのあなたを受け入れるということ、それが私が子供たちに伝えたい言葉なのだ、と。


こんなふうに言うと、とても大袈裟ですが、当たり前のことなのかもしれません。
例えば「それでも愛してる」と思った時、多くの人が無意識に何かを飛び越えて向こうの世界を垣間見る…そういう小さな経験の輪繋ぎのようなものなのかもしれません。
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by treeintheheart | 2014-03-05 21:18 | 子供たちの記録

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart