ずっと書きたかった「文化」雑感(2011/11/06 12:36)

私のささやかなブログ訪ねてくださる皆さま、今回は、随分理屈っぽい生意気なことを書きます。
苦々しく思われたり退屈だったら、ごめんなさい。
でも、何の知識も知恵もない私が、ずっと感じてきたことを少しまとめてみましたので、皆さまにも聞いていただきたかったのです。
私は今は学生ではなく、ある程度歳も重ねました。ですから身近にいて教え導いてくださるのは皆さましかいません。そこで、皆さまの厳しい目に私の拙い文章を曝そうと、ない勇気を振り絞りました。
前置きが長くなりましたが、どうかよろしくお願いします。


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毎年、文化の日には沢山の人が様々な賞を受賞する。
しかし、ごくおおざっぱにいって日本は文化に対し冷たい国である。

芸術であれスポーツであれ、一角の者となるまでは自助努力に任せられる。まさか芸術は貧困と周囲の無理解の中で育つイメージが未だにあるのだろうか。
世界的な水準からみて日本の企業や富裕層は、今も昔も文化の育成発展にたいする貢献が少ない。(これは貴族意識や選民思想とも関わってくるものだと思うが、ここでは省く。)
企業、富裕層ばかりでなく、一般人も文化に対しての意識は偏っている。賞やメダルをとると持て囃し、彼の偉業や育てられ方を微に入り細に入りレポートするくせに、そういう評価の明らかでない物に対しては無関心だ。一体彼らが誉めそやしているものは、作品そのものなのか賞やメダルなのか。
というより、明確で一般的な評価がされないものにたいしては、「どのようなリアクションをとればよいのかわからない」とといったところかもしれない。

多くの親が「我が子の才能を発掘し伸ばしたい」と様々な習い事に通わせるが、その目指すものが本当に才能や芸術そのものか、それともそれがもたらすはずの人気や名誉や富にあるのか、厳しく己に問う親は少ないだろう。
というより、才能の発掘や育成が自助努力に任せられている以上、多くの親は「採算」を度外視できないのである。
だが、はっきりいって「採算」は「芸術」の芯の部分とは最も相容れないものだ。だからこそ、潤沢な資金の提供が望まれるのである。

しかし、多くの企業、資産家、行政にとって、投資ではなく、「見返りを期待せずに資金を提供すること」は優先順位が極めて低い。
多くの大企業が「そんなゆとりはない」というが、世界で五本指に入る経済大国の大企業がほんとうにそうなら、一体誰なら「ゆとりがある」のだろう。

その裏には、「文化」というものは、生活とは遊離しており、人にとって必需品でもなく、資金を注ぎ込んでも無駄な贅沢品だという認識を持っているからではないだろうか。(企業イメージのCMとは真反対だが)


広義での「文化」(芸術、スポーツ、建築等含む)が軽んじられる原因のひとつに日本人が個性、人と違うことを嫌う国民であることがある。


日本では個性、人と違うことを保持しようと思ったら大なり小なり何かを捨てなければならない。
また、日本人は何かを一並びにして順列を明らかにすることが好きである。(いわゆる「三大〇〇」がその良い例だ。)しかし文化、少なくとも芸術は本来順列を付けがたいものである。
この二つの傾向が顕著に表れているのが、教育の分野である。「どのような人間、社会であることが望ましいか」が問われ、その実現に向けて活動する場である以上、当然のことだ。

文化に深く関わるものに絞ってごく表面的検証に留めるが、多くの学校や幼稚園で少なくとも数年前に行われていた「同程度のタイムの子供達が一並びにゴールする徒競走」や「主役が大勢いる劇」や「異議が出ないディスカッション」は、将来にわたって個性を潰し、文化を軽んじ、身近では虐めを助長する一因となる。


それらに共通するのは同質化への肯定である。異質なものが補い合い或いは融合した結果ではない。「和を以って貴しとなす」のは良いことだが、初めから均質な物の和を図ったところでたかが知れている。(余談だが、日本人が交渉事に弱い一因はここにあるのではないかと思う。)

同質化を指向する体質が最も簡単な形で表れるのが、議論の場である。多くの場合、様々な可能性を検証し最善を選ぶのが目的であるから、色々な意見が出され厳しく検討されたほうが良いはずだ。
時には「自分は賛同するわけではないが…」とことわりつつでも異論を紹介したほうがよい場合さえあるかもしれない。
実際アメリカの授業では「同意見です」はタブーで何かしらバラエティを持たせるか、理由説明等を付け加えることが求められるようだ。
しかし日本では、誰かの意見に対立する意見を述べることは、意見そのものだけでなく、その意見の持ち主をも批判する行為とも受け取られかねない。

また、「主役が何人もいる劇」の裏には、総合芸術であり、豊かな学習の場である劇の制作と発表において、主役を頂点とするランク付けを持ち込んでいるわけで、そのことがもたらす損失は計り知れない。


これでは異質なものを受け入れる素地は育たない。「みんなちがってみんないい」が掛け声だけでなく、子供時代から浸透するようになれば、虐め等の問題も新しい局面を迎えるだろうことは容易に想像できるはずだ。


今年、多くの怒りと悲しみが日本全土を被った。余裕のないこのような時にこそ、文化的な作品や活動が必要とされることは、被災地で多くのコンサートが開かれていることからも推測できるだろう。

なぜなら文化は、決して贅沢でも気まぐれな手慰みでもなく人の営みの一部でありその精神を根底から支え、生きる気力を生み出す源だからである。

困難な時代だからこそ、文化に対する手厚い保護と、育成に力を尽くしてほしい。長い目でみれば、それが私達の子供世代への大きな贈り物となると思う。


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元々の文章は震災の年に書いたのですが、あれから社会では様々な事件があり、我が家にも大きな変化がいくつかありました。けれども、この社会はちっとも変わっていない、変わろうとすらしていない、というのが正直な気持ちです。変わっていれば、もしかしたら防げた不幸や悲劇もあったかもしれません。けれども、社会や時代を嘆くより、まずは自らが、とも。



最後に、機会があったら、どうかレオ=レオニの「フレデリック」をよんでください。

辛抱強くお付き合いいただき、ありがとうございました。
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by treeintheheart | 2013-11-04 14:23 | 文化と言葉と…

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart