信じるということ②〜思春期の親子〜(2011/01/12)

「信じる」ことは時に論理に裏付けられたものを越える時があるように感じます。
特に私が感じるのは、思春期の親子関係で、親はある年頃から子供のことがさっぱり解らなくなったりします。
身体ばかり大きくなって、理屈にならない理屈を振り回して、こちらが根負けしてちょっと気を抜くと、子供は、まるで解き放たれた犬か凧糸切れた凧みたいに走り去って行く、遠くへ、遠くへ…
親はそれをハラハラしながら見ている。もはや呼び声も聞こえない。時には悪い情報も入るかもしれない。

…そんなとき多くの親がつぶやきます。
「ウチの子に限って…」
いいえ、そんなことありません、「ウチの子」だって何処の子だって「やるときはやる」、そういうモンです。
…人間だもの。
だけど親は慌てます、
「なぜだろう、私の育て方が悪かったのだろうか」
「愛情が足りなかっのだろうか」
「SOSを出していたのにサインを見落としたのだろうか」
…そう考え始めると、あれもこれもサインだったような…
一人で考えてると思考が堂々巡りを始め煮詰まってしまう…螺旋を描いて下へ下へ…
「このまま行ったらあの子はどうなってしまうのだろう」
この前見た週刊誌の見出し《少年Aの母の手記》なんていうのが頭の中をかすめたり…
そういう時、私は①で書いたように、我が子を信じよう、…と、私は思うことにしました。


昨日、彼は間違ったかもしれない。人間だから間違うことだってある、弱くて負けるときもある。でも、彼の中には、今まで語りかけてきた言葉、抱きしめた温もり、歌声、読んだ本、お風呂でのジェットコースターごっこ、ごはん…そういうものが混然一体となって土壌を作っている。種はもう蒔かれている。

だから、親ができることは、子供を信じること。子供が間違わないことではなく、彼の中に光を目指して芽生えるものがあることを。
人生のゴールは、20歳や30歳ではないし、勝ち負けなんて物差しで人に評価されるだけの人生なんて、つまらないよね、と心から言える母でありたいから。
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by treeintheheart | 2013-08-07 20:53 | 子供たちの記録

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart