信じるということ①(2011/01/11)

平凡な毎日を過ごすなかで、私達は常に何かを信じながら行動している。天気予報を信じ、電車の正確な運転を信じ、ショップのスタッフを信じ、円を信じ銀行を信じ…という具合である。

意識的であれ無意識にであれ、表面的な特徴や既存の常識に沿って「信じるべきか否か」を判断し振り分けた上で行動し思考する。これで大抵のことはクリアできる。
付け加えるとすれば、アンテナの感度を上げたりスキルを磨く努力によって成功はより確実になる。以前書いたpositive thinking の出番でもある。


ところが、人生にはそれだけでは越えられない壁にぶつかる時がある。
今まで信じてきたものが全て、音を立てて崩れていく一方で、逆に、今まで無縁だったもの、否定的に捉えてきたものと向き合うことを余儀なくされる…そういう時に、私達は、もう一度
「『信じる』とはどういうことだったのか」
と考えざるをえなくなる。少なくとも私はそうだった。


少し極端だが、相手が敵対するグループであれ凶悪犯であれ、人間(特に信じがたいもの)を信じる、とは、
「そのものの本質が善へ向かう力があると信じること」
だと私は思う。
それは個体の意識的なものでなく、人間の奥深くに組み込まれたシステムのようなもの…私はいつも「向光性」という言葉を連想する。理科の実験で光に向かって植物が伸びる、あの性質のことだ。

人間が現実の中でフジツボみたいなものにびっしりと被われていても、その本質は担保されていて人の深いところに潜んでいるだけなのではないだろうか…
「つまり性善説とか予定調和ということだろう」と言われたら私は首を横に振るだろうが、それらとはどうちがうのか上手く説明出来ない。
最も近いのは、辻邦生著「春の戴冠」の中にある。「春」「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリの絵が、陰影でなく非現実的な、くっきりとした線描で描かれた理由について、
「本来の唯一本の線を見出してそれをなぞるのだ」
と言っているくだりだ。
だから、例えば、真面目とか優しいとか嘘をつかないといった様々な美徳は「信じる」ための要素なのだろうが、たとえ相手がそうでないとしても、人は時にそれらの不在を超えて「信じる」のだ、と思う。

…と思う一方で、それを実行したら現実社会では生きていけないことも知っている。
だからといって、全て否定し、諦め、それを賢いと言明することも私の中の何かが受け付けない。

信じるに足るものを信じることは当たり前だ。フィルムを逆送りして観るように、先ず「信じる」ことで本来の姿が立ち顕れることもあるのではないか。

愚かで夢想にすぎない考えかもしれないけれど、信じるとは、硬く土に被われた遺跡のレリーフを復元させるように本来の姿を見出だすことだと思う。
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by treeintheheart | 2013-08-07 17:25 | 考えていたこと

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart