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合宿

長女が市民バンドの合宿に行ってきました。

中高生時代に吹奏楽部に所属していた長女は、大学に入ってからも当然音楽を続けるつもりでした。しかし、なかなかしっくりくるような団体がなく、遂に音楽と深く関わることなく卒業してしまいました。
3歳で音楽教室に通い始めてから、音楽を演奏することからこんなに長い間遠ざかったのは、生まれて初めてでした。

たった三日間ですが久しぶりの音楽漬けをたっぷり楽しんで来たようです。朝9時から夜9時まで練習したあとは飲み会が始まり明け方5時まで…4、50代の方もいらっしゃると聞いたのですが、皆さま体力あるんだなあ、と感心しました。

そんなこんなのハッピーな合宿でしたが唯一困ったのはお天気でした。
何しろ、新しいバスクラリネットはまだ馴らしはじめですから古い楽団所有のと併せて二本持っての移動です。
それなのに長女は筋金入りの雨女。湿度に敏感な木管楽器を抱えて大変だったみたいです。


あ、因みに今日も練習日です。
今朝、長女の出掛けに
「全国的に花散らしの雨が降ってるみたいね。」
と声をかけたかったのですが、
「それがなにか?」
って睨まれそうでやめました(-.-;)
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by treeintheheart | 2014-03-30 10:45 | 日々

To the Wonderを観ました(DVD)

多くの人が、この映画を恋愛を描いたものとして観るだろう。
確かに、ニールとマリーナの愛を中心に物語は進行していく。様々な愛の記憶の断片が、時系列を越えて入れ替わり立ち替わり表れる。「愛さえあれば何もいらない」と思っていた頃、この愛が永遠につづくと信じていた頃でさえ、その後に起きるいさかいや裏切りは既に内包されていることを仄めかすようなナレーションとともに。

しかし、物語は男女の愛の行方を追いながら、次第にもうひとつの愛を問う声が大きくなって行く。
特に、神父の目線でカメラが教区民の苦悩や孤独を切り取って行くシーンでは、愛の不在がどれほどの打撃を人に与えるものかを見せつけてくる。その問いかけは男女の愛を含むもっと漠然としたものから始まる。
「私にはあなたが見えない」
宗教、特にキリスト教にあまり縁のない日本人には解りにくいところかもしれないが、恋愛を通して彼らが求めているのは神の愛なのである。

行きずりの男性と関係を持ったマリーナがニールの足に接吻をするシーンがある。正にマグダラのマリアを思い起こさせるシーンだ。
ある人がマリーナにとってニールが救いであることを表現しているとコメントしていたが、私にはそうは思えなかった。
何故なら、それに先立つシーンでニールはマリーナの裏切りに対し激しい怒りを露にしている。しかしその実、ニールもかつてマリーナを裏切っているのである。何も知らないマリーナの接吻に為すすべもなく茫然としているニールの脳裏に浮かんだのは、むしろ姦淫の罪を犯した女を引き出した人々に対し「汝等の中で罪なきものがまず石もて打て」とイエスが言ったというルカによる福音書7章36-50節のエピソードではなかったか。
ニールもマリーナもその愛は不完全で移ろいやすく信じてその身を託すにはあまりにも頼りない。けれども、その愛は手を伸ばせば触れることが出来る。ともに歩み、いたわり合いながら育てていける愛である。
それに対し永遠に変わらぬ神の愛は、世界に満ちあふれているはずであるのに、我々は触れるどころか視ることすら出来ずにいる。
我々は、不完全な自分達の愛を通してしか神の愛を垣間見ることが出来ないのかもしれない。


全編を通して、神の御手により創造された美しい自然と、人の手により創造された芸術的作品とが絡み合うように映し出される。
そこではまるで自然の方が移ろいやすく、人の作ったものの方が堅固であるかのようだ。
その移り変わる風景の中をマリーナは妖精のように軽やかにステップを踏んでいく。けれども、決して遠くへ離れていくわけではなく、くるりと振り向いてニールを待っている。(このシーンはニールが「信じて」と言いながら目を閉じたまま後方へ倒れかかるマリーナを受け止めるシーンと呼応しているようにかんじた。)

映像は幻想的だが、その語ろうとするものは決して夢物語ではない。平和な町に潜む汚染や貧困や既成の宗教が持つ限界や…様々な現実を確り織り込んで、さらに通奏低音のように神を求める声が重なる。
神は答えないのか。
ラストシーンで我々は、潮が引きモンサンミッシェルへ渡る砂地の道が露になっているのを見る。
まるでThe Wonder に至る道のように。


監督・脚本
テレンス・マリック
出演
ベン・アフレック
オルガ・キュリレンコ
ハビエル・バルデム
レイチェル・マクアダムス
音楽
ハナン・タウンゼンド
撮影
エマニュエル・ルベツキ
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by treeintheheart | 2014-03-19 20:29 | 映画、DVD、音楽

バスクラリネット

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長女がついにバスクラリネットを買いました。
中学、高校時代と吹奏楽部でサックス、クラリネットを吹いてきたのですが、その頃から買うとは言っていました。でも、まさか本当に買うなんて…
「だって高いし重いし、脚広げて吹かなきゃいけないし…」
と、俗っぽい事ばかり考えてしまうワタクシです。

木管楽器が金管に比べて高価なのは、きっと材料となる木自体が貴重だからなのでしょう。普通のクラリネットで30万円位、バスクラリネットは大きいだけに150万円位かかると見積もっておかなければなりません。予算が合っても肝腎の楽器との相性が合わないこともあるのでしょうね、素人なのでよくわかりませんが。それに、小物ひとつで音も随分変わるようです。

昨夜10時を回った頃、寒風吹きすさぶ中駅から自転車をこいで帰って来た長女は、疲れきった様子でしたが、背中にランドセルのようにバスクラを背負っているせいかすっかり子供じみて見えました。
「私いま、すっごいテンション上がってるの~♪」
普段は年齢以上に落ち着いて見られるタイプです。
「生まれてから一番(テンション)高いかも~♪」
(≧∇≦)\(-_-)ヨシヨシ
「今なら回れるぅ~♪回っちゃおうかしら~」
ボン・クレーか(-"-;)
「どうしてこーゆー時に○○ちゃん(←妹)いないの~(ρ_;)」
…と、ひとしきりはしゃいだ後。漸くケースを開けてくれました。
真新しいバスクラは、何だか本当に輝いて見えました。これから数ヵ月かけてじっくり馴らしていくようです。
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by treeintheheart | 2014-03-10 10:32 | 子供たちの記録

オラショを知っていますか?

私の大好きな指揮者、西本智美さんとイルミナートフィル&イルミナート合唱団が、今年もヴァチカン国際音楽祭に招聘されました。
ヴェルディの「レクイエム」を演奏します。イタリアを代表する作曲家であるヴェルディを並み居るイタリアのオーケストラや合唱団を差し置いて、日本人が演奏するって、すごいことだと思います。しかも、レクイエムはここでは初めての演奏だそうです。
すごぉい!!!(≧∇≦)
…って、すごいばかりですが、他の言葉が出てきません。

さらに感動したのは、サンピエトロのミサで「オラショ」を再演するよう要請があったことです。


オラショとは、隠れキリシタンに伝わる祈りの歌です。
1975年(昭和50年)5月、当時、立教大学で教えていらっしゃった皆川達夫先生が生月島で運命的といっていい出会いをします。
400年間秘かに伝えられてきた歌は、もはや御詠歌とも呪文ともつかない不思議なメロディと意味不明の歌詞に変化していました。歌詞を書くことはもちろん禁じられていましたし、一年間のうち春のある時期だけ向かい合って布団を被り伝えた、というのですから正確に伝わらなかったのは無理もありません。むしろ、隠れキリシタンの人々がどれほど必死にオラショを護ってきたかを思うと、言葉を失います。

先生はオラショを録音し、楽譜に起こしてヨーロッパ中を探しました。オラショを歌っている方々もどこの国の言葉か知らず、ただ「唐言葉」と思っていたのですが、先生は「ラテン語の訛ったものてはないか」と考えたのでした。

やがて、生月島の三つの歌オラショのうち、『らおだて』と『なじょう』とが、それぞれラテン語聖歌の『ラウダーテ・ドミヌム Laudate Dominum (主をたたえよ=詩編一一六編)』と『ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis (今こそしもべを=シメオンの賛歌)』に基づくことがわかりました。しかし、最後に残った『ぐるりよざ』はなかなか原曲がわからず、探し始めてから7年目の1982年(昭和57年)10月、スペインのマドリッドの図書館で、漸くその原曲が入っている聖歌集を見つけることができました。曲名は『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』。
この曲は、今も世界中で歌われている標準的な聖歌ではなくて、十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていたローカル聖歌でした。それが、その地域出身の宣教師によって400年前に日本にもたらされたのです。そして隠れキリシタン達が命がけで守ってくれた結果、私達の時代にまで残ったのでした。
もちろん、キリシタン達は私達に伝えることが目的だったわけではありません。長い辛い弾圧の日々を、これらの訳のわからない不思議な音楽が支え続けたのでした。
皆川先生があるところでこのように書いていらっしゃったのを最近見つけましたので、ご紹介しておきます。

《音楽は、まるで花火のように一瞬の間に生起して消滅してしまう、はかなくて力のないもののように思われがちだが、実は隠れキリシタンたちがほぼ四百年も生き続けることを支え、また流産しかかった胎児の生命を救うほどの強靭な力を内に蔵していたのである。大学受験時のわたくしが医学をとるか音楽をとるかを迷ったあげく、「音楽も、人の心の生命を救うことが出来るはずだ」と信じたことは、決して間違いでも誤りでもなかった。》
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by treeintheheart | 2014-03-08 01:54 | 文化と言葉と…

贈り物(20120312)

一週間以上前になりますが
夢を見ました


巨大地震が来て津波が東京湾から川をさかのぼってくる。夫は私を連れて一緒に逃げようとする。でも私は走れない。いつの間に水が押し寄せたのか私達は家具や雑多なものと共に流されている。手が離れる。これは夢だ。それでも私は叫ぶ。
私はいいから。先に逃げて。子供たちに伝えて。私が愛していたと。これからもずっと愛していると。

そこで目が覚めました。



笑っちゃう…まるで安手のドラマみたい。夢だと判っていながらあんなことを言うなんて。このところ地震が多いし、先だって息子が「いざというときのために車椅子を用意しとかないと、お母さん走れないだろ」なんて、珍しく殊勝なことを言うから…

それから私は気づきました。
これは、答えなのだ。十年間抱き続けてきた問いへの答え。


十年前、私は緊急入院し、一年間子供たちと離れ入院生活を送りました。その時の私の肝細胞を見たお医者様は、「この人この肝臓でまだ生きてるんだよ」とおっしゃったそうです。
知らぬ間に死と隣り合わせしていた。辛いとは言え普通に日常生活を送っていたのに。

病院のベッドの上で、私は考えました。
このまま死ぬとしたら、私は子供たちに何を残してあげられるのだろう。
所謂「背中を見て」もらうことはもうできない。こんなことなら仕事を辞めて家中をもっとピカピカに磨き、毎日笑顔で帰宅を迎えてあげていればよかった。もっと一緒にお菓子を作りたかった、アンサンブルしたかった、鬼ごっこしたかった…
上の娘は中学に入ったばかり。これからは悩むことも多いだろうに、きっと表に出さないだろう。夫や義母は気づいてくれるだろうか。
二番目は、昨年から急に変わってしまった。変わり者と評判の先生のクラスになってから。「裁判」に掛けられたこともあったらしい。「みんなだよ」と言っていたけれど。
下の子は入学したばかり。私のことも忘れてしまうだろう。いや抱かれなかった記憶は残るのだろうか。ごめんね、抱っこして自転車に乗せてあげることが随分前から出来なくなって。よじ登るの大変だったね。
想いは様々に駆け巡りましたが、自分が何を残してあげられるのかは思いつきませんでした。

何もしてあげられない

病室に道具一式を持ちこんで、次女のエプロンと息子のダンガリーシャツに名前を刺繍しながら、私は考え続けました。

「愛してる」なんて抽象的な言葉じゃなくて、教訓めいた話でもなくて、でも、これから生きていく上で想像もしなかった困難に出会った時に、其処に帰って来られるような、私の代わりに支えてくれるような、強い言霊を秘めた言葉…
私自身、たくさんの言葉に支えられてきたけれど、どれもそれを言われた時の状況や言ってくださった方の思い出が伴ってこそ光を帯びるものでした。


そうこうするうちに私は何とか退院しました。何もしてあげられない状況は変わらないのに、復帰してしまったポジション。想いは困難な日常の中で付箋をつけて机上に置いたまま。「言霊」も「背中」もどこへやら
反抗期の子供たちと売り言葉に買い言葉、思うようにならない身体に息子を連れて夜の川を見つめること数回、泣きながらの平手打ちなんて何の効果もない「最終兵器」だと発見。

そんな十年間の中で、私は感じてきました。
人を愛することは必ずしも笑顔や美しいものとは結び付かない。怒りも悲しみも呑み込む貪欲さ。岩壁のように厳しく荒削りで人を追い詰める。けれども、それは全ての価値基準や知恵や良識を覆す。だから、私は夢の中で「これからもずっと」と言ったのでしょう。
子供たちがこれから先何をするか、どんな大人になるか、夢の中では死ぬ設定になっているらしい(!)私には確かめる術はない。けれども、何か起こる前から全てを赦し、ありのままのあなたを受け入れるということ、それが私が子供たちに伝えたい言葉なのだ、と。


こんなふうに言うと、とても大袈裟ですが、当たり前のことなのかもしれません。
例えば「それでも愛してる」と思った時、多くの人が無意識に何かを飛び越えて向こうの世界を垣間見る…そういう小さな経験の輪繋ぎのようなものなのかもしれません。
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by treeintheheart | 2014-03-05 21:18 | 考えていたこと

あれは島だよ(20121230)

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あれは島だよ
とあなたが言う

あれは船よ
とわたしが言う

ほら、見えないの
ゆっくりこちらに
近づいてくる

あれは島だよ
知らないくせに
昔からずっと
あそこにあるんだ

些細なことで口喧嘩
お互いを見つめるだけなら
喧嘩になんかならないのに

浜へ駆け降りた朱い背中に
呟きたくなる自分を
そっと戒めた

あなたが軽く叩いてやると
砂にまみれたビーチボールも
たちまち息を吹き返す

つかの間のプライベートビーチ
二人の間でキラキラと
弾かれるたびに鈴が鳴る
ボールはやがて見えなくなった

二人なら
こんなにラリーが続くのに
試合で組むと必ず揉めたね
パーキングに戻りながら
あなたの背中に投げかける

つまらないこと蒸し返すなよ
あなたの両手に挟まれて
ボールはキュッと押し黙る

違うの ちょっと思い出しただけ
わたしは ゆっくり笑ってみせる
嫌な思い出じゃないから

嫌な思い出なんかないから
そう 今となっては

相変わらず変なやつだな
あなたの背中は朱から黒へ
その背中に触りたい
確かめたいことがある
闇に溶けて見失う前に


ほら見ろよ
ふいにあなたが
沖を指す

さっきから
変わってないだろ
やっぱりあれは
島なんだよ

そうね
島かもしれないわね
わたしは ゆっくり
笑ってみせる

あれは 船よ
あの船に
乗っているのは…


あなたは知らない
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by treeintheheart | 2014-03-04 00:25 | 詩、物語、短歌…

あまごと

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繰り返し下ろされる鈍色の帳
密やかに陽は上りまた沈む
見渡す限りの屋根に道に
ただひたすらに雨が降る


ラグーンを支える幾億の杭のように
山に街に川に田畑に
静かな疑問符の羅列が
隙間なく打ち込まれる


抗い難い声ともに
永遠(とわ)に 永遠(とわ)に
永遠(とわ)に 永遠(とわ)に…と


天と我等の間に揺らめく無数の精霊が
各々の胸に作り上げた仄白く光る珠を
約束の合図とともに
懐かしい大地へ向けて解き放つ


これは春を迎える儀式なのだ
軟らかに潤った被膜の下から
無数の生命(いのち)が再び芽吹く


待ちかねて眠りに落ちる
冬の睫毛に氷の滴がふるえている
溶けて滑り落ちていく
頬の曲線(まるみ)を夢に辿りながら
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by treeintheheart | 2014-03-02 05:03 | 詩、物語、短歌…