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昨日(24日)は実家のお墓参りに行ってきました。長女の運転で初めて高速に乗りました。いつもはうとうとしながら行く道を緊張して後部席に座っていたので、首も肩もガチガチになりましたが、幸い渋滞もなく昼前に着くことができました。
春の彼岸も夏のお盆も行けなかったので、大掃除を覚悟していたのですが、意外にもお墓はきれいでした。

「本当に来たのかしら?でも掃除を頼んだと言っていたし…」
実は、今朝実家の母に電話した時に、母が
「昨日父と墓参りに行ってきた」
と言ったのです。
でも、私は半信半疑でした。
だって、多発性骨盤腫で今年いっぱいもつか、と言われている人が、家の中を歩き回るのがやっとだというのに、いくらタクシーを使ったからと言って、こんな不便なところへ来れるだろうか?と思ったのです。

つい先日、
「お墓参りに行くなら車で一緒にいこう」
と誘った時も、
「せっかくだけど体力がもたないから諦める」
と言っていたのでした。
そんなことを考えているところへ、霊園を管理している会社の車が通り掛かり、
「昨日そうじをして花を飾った」
と言いました。
ではやはり、認知症状がすすんだ結果、気になっていた墓参りを済ませたつもりになったのだろう、と私は思いました。
(以前日記に書きましたが、私の母は癌が進行して、昨年くらいから認知症にも似た症状が顕れていました)

ところが、実家に立ち寄って父に聞いてみると、本当に父母はお墓参りに行っていたのでした。
23日に二人でお寺に行き、そこからタクシーを使ったらしいのです。

たしかに最近、電話をする度に元気そうな母ではありました。
先日も、掛かり付けの大学病院から駅まで歩いたというので驚かされたばかりです。
「たぶん一人じゃ不安で歩けなかっただろうけれど、パパと二人だったから…」
と母はにこにこして言いました。
「若くて一人で何でもできたころは、離婚しようと思ったこともあったけど、今はこうしてパパと二人だから何とかやっていけるんだものね…」
と、その後ひとしきり昔話を聞かされましたが、母の表情には生気があり、お化粧もしていないのに昔の肌の美しさが蘇っていました。

父が入院していた時、昼間でもカーテンを閉めきって一日中ダイニングの椅子に座っていたのとは別人のようでした。

さらに驚いたのは、以前のように「あれがない」「これがない」と言わなくなったことです。
相変わらず物忘れはあるのですが、「盗った」「隠した」と私を責めることはなくなりました。

小さな不便や不満はあるものの、母は穏やかで充足してみえました。

母によると、お盆に私たちが母をショッピングに連れ出したのが大きな転機になったらしいのです。
売り場まで歩くだけで疲れてしまい、肝心の買い物はできなかったのですが、
「やれば、まだ出来る」
と、自信がついたのだそうです。
「一人で買い物が出来るようにならなくちゃ。パパが一人で何もかもやってくれていて可哀相でしょ」

何だか魔法にかかったような不思議な気持ちです。苦労の多かった母に、神様からの贈り物かもしれない、と思ってしまうくらいでした。
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by treeintheheart | 2013-08-31 11:36 | 父母の記録
目覚めると涼しい風
あの猛々しい夏はもういない


かろやかにステップふんで
気まぐれに優しい秋が
細い指で爪痕をなぞりながら
朝な夕なに囁くようになると


弾き返す光の粒と
目も眩む熱い腕と
前触れもなく消えた
煌めく日々を惜しんで
魔法使いは言葉を失う


今はひとり
常夏の地の深い森の奥で
泉のそばの苔むした石に
ひっそりと座っていたい



…あ、ダメだ
ワタシ虫ニガテダ…
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by treeintheheart | 2013-08-31 08:49 | 詩、物語、短歌…
昨日の日記をアップして間もなく、母から泊まりに来ないでくれ、と電話。想定内の出来事だったので「わかった」と電話を切り入院中の父にメールする。
実は、2、3日前から母は
「病院に行かない、薬だけもらって来てくれ」
と私に言うので、父から説得してもらったばかりだったからだ。
しかし父からも電話があり、どうやら病院の診察にも付いて行くな、ということらしい。
父は耳が遠いので携帯同士の会話は怒鳴りあいに近い。


今まで母の診察には父のみが付き添ってきて譲らなかった。自然、母の病状は父を通して語られる。
いくらしっかりしているとはいえ、自分自身も癌を抱えている高齢の付き添い人に、先生はどこまで事実を伝えているのだろうか。第一あの耳でどこまで情報をキャッチしているのか疑わしい。
今回は母の病状を正確に知るチャンスだったのだが…。

さらに今回は、今後について相談するためにソーシャルワーカーの方にも予約を入れてあったのに…

付き添いは妹だけでいい、という。前回は妹だけでは駄目だと言い張って付き添い、再入院になったから、今回私が一緒に行くことにしたのになあ…

埒があかないので実家にいる妹の携帯に電話したところ、父母に無断で先生と話をしようとしている、ソーシャルワーカーに相談しようとしている、とお腹立ちらしい。
「許可」は得なかったけど、予約前にも話はしてあるし、ケアマネージャーさんにも「今後について」ある程度詰めてほしいと言われてるのに。

仕方ない…としか言いようがない。次のチャンスを待とう。

ただ、父の再入院とその時の説明に立ち会ったのは私達夫婦のみだから、父母も妹も本当の現状を知らない。

明日、父は退院する予定だ。
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by treeintheheart | 2013-08-29 10:20 | 父母の記録
今晩から実家に行く予定です。
明日、3週間に1度の母の診察の付き添いと明後日の父の退院の為です。

そうです、父は退院します。
一時は最悪の事態も覚悟しましたが、奇跡的に状態が70%程度まで回復したので退院です。

それ自体は喜ばしいことなのですが、また「おれがやる病」のほうが再発しそうです。そのため、母の診察日の翌日まで退院を延ばしてもらいました。


母のほうは骨髄腫に伴う認知症状があり、今回も私が実家に泊まることを受け入れてくれるか、ぎりぎりまでわかりません。
母が私にたいして攻撃的になることについては、悲しいけれどある程度腹を括ることができますが、義母がそれをご近所や親戚に不正確な形で「ご報告」するのが、ちょっと困ります(;_;)
さて、これからの三日間、どうなることやら…
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by treeintheheart | 2013-08-29 10:20 | 父母の記録
昨日は実家にいき、母が美容院に行きたがっていたので連れて行きました。
その後そのまま父の病院へ…感動の再会となりました。

父は無邪気と言っていいくらいの笑顔でした。数日前とは別人のように滑舌もはっきりしていました。
母も久しぶりに髪をカットしてもらったせいか、夢から醒めたようなすっきりした表情をしていました。

お互いに「思ったより元気そう」と言いあい、他愛もない会話を少ししたあと写真を撮りました。お互いが相手からパワーをもらったようでした。

「一緒にいると喧嘩ばかりしているのにね」
と帰宅してから母がいいました。
「やっぱり夫婦は一緒にいなきゃだめよね。気になって仕方ないもの」
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by treeintheheart | 2013-08-29 10:14 | 父母の記録
昨日、父の入院している病院から呼び出しがあり、主人の帰宅後、病院へ伺って、主治医の先生とお話してきました。

見せていただいたレントゲン写真は、肺の下部が真っ白でした。誤嚥性肺炎を起こしているそうです。
胸水も溜まっている
上の方に点々とある丸い影も、白い雲が纏わり付き癌が勢いづいているのだと感じました。癌性リンパ管症も見られる…つまりリンパを伝わって癌が全身に回ったということでしょうか。

最初に入院した時の写真とは別人のようでした。

本当は妹にも声をかけたのですが、
「夜は帰りの電車なくなっちゃうし、宅急便も来るから」
と断られてしまったのでした。
妹との温度差は屡々感じることですが、昨夜ばかりは
「無理にでも来てほしかったなぁ」
と思わずにはいられませんでした。

帰宅は深夜になりましたが、心配して起きていた子供達に、ありのままの病状を話しました。真剣に受け止め質問してくる姿は頼もしかったです。
「土日は俺が行くから、二人は少し休めよ」
息子が言ってくれました。

でも実際はやらなければならないことが山積みです。

これから父のために何ができるか、あれこれ迷うことも多いのですが、できるかぎりの援護射撃をしたいと思っています。
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by treeintheheart | 2013-08-29 10:12 | 父母の記録
6月6日 父入院

5月初旬から食べると嘔吐、掛かり付けの病院で毎日点滴を受けながら母の介護をしていたが、5日(日)私と妹夫婦を呼んで話をしたうえで自分一人で入院した。

結果からいえば、30年前に十二指腸潰瘍で十二指腸と胃の2/3を切除していたので消化能力が弱いところへ、自身の癌や介護による過労等で食物が消化されずに食道に詰まっていたらしい。

安静と点滴で体力回復し、16日(木)に無事退院したと思ったら、わずか3日で再入院となった。

何しろ退院した当日に買い物にいくし、翌日は母の診察に付き添って病院に行くし…再入院するのも当たり前。
父が無理しないよう手配しておいたあれこれを全部無視して、また自分一人でやろうとしたのだから。

今日、私は父に手厳しいことを言わずにいられなかった。

「申し訳ない」という父の声は小さくて…

私のほうが申し訳ないことをしたのだという気がした。
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by treeintheheart | 2013-08-29 08:48 | 父母の記録
いみじくもシェイクスピアが言ったように「不幸は寂しがりや」なのだろうか、悪いことは続くもので、一昨日冷蔵庫からキャベツを取り出そうとしたワタクシは、腰に軽い違和感を…
あれ…?
なんだ、これは…ヤナ予感…
姿勢を起こしてキッチンカウンターに手をつくまでの間にも、手足がどんどんしびれてくる。

わぁー…
これが噂にきく「ぎっくり腰」???
「最初は動けたのよね」
ってよく聞くけど、こういうことかぁ…

折しも買い物を頼んだ息子から電話がかかってきた。
「あのさぁ、食卓塩てなに?」
「食卓塩、今日は良いから…それより、ぎっくり腰やっちゃったみたいなの、早く帰って来て」
「へぇそう。そりゃお大事に」
切れた。クソ、冷たいやつめ。
でも、無理もない。物心ついたころから、母親が元気ハツラツだったことなんてないのだから、慣れっこになっちゃったのだろう。
(因みに本人によると「物心ついたのは6歳」なのだそうだ。「ええ?ずいぶん遅いんだね」と言ったら睨み返された。)

それでも、帰宅した息子はすぐに買ってきたものを片付け「パスタを茹でりゃいいんでしょ」と訊いた。
買い物に行ってもらった後で腰を痛めたので、買ってきたものと家にあるもので息子でも作れそうなメニュー~芝えびとブロッコリー、トマトソースの冷製パスタに変更。

その後、覗きに来た義母が手伝うつもりで鍋をクレンザーで洗ってしまい、息子に注意されて怒って自室に引き上げるという事件があった(ToT)ものの、横になれない私の為に長女がベッド上にクッションで背もたれを作ってくれたり、次女が身体をふいてくれたり、私が二階の部屋に上がれないでいるのを息子がおぶって運んでくれたり…とても賑やかな夜になった。
痛みで殆ど眠れなかったけれど、昨日はとてもハッピーな気持ちで朝を迎えた。
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by treeintheheart | 2013-08-28 08:00 | 日々
連日の暑さに辟易して引きこもり中なので、夏の間は息子お勧めのDVDを観て過ごすことにしました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


原題は【The Wind That Shaking The Barley】
作品中で、英兵士になぶり殺された少年の弔いに歌われるアイルランドのトラッドです。
アイルランドがイングランドから独立するための長い戦いがあることはうっすらと知っていたけれど、この映画を観てショックだったのは、その戦いがあまりにも小規模で地味なことだった。
何しろ、10人20人のグループで、ろくな武器も持たず、情報も作戦もないような戦いがあり、その中で仲間の裏切りや兄弟の対立があり、最後には兄が弟を処刑するに至る。
現在世界の各地で起きている戦争に比べたら、ままごとのような戦争…けれど、それは大量の武器弾薬を投入し秒刻みの情報戦に支えられた戦争に比べて、悲しみも小さいわけではない。

本来決して勇敢なことが好きなわけでもなく、戦闘向きでもない村の若者たちが武器を取ろうとするのは、よほど追い詰められているのだ、と事態の深刻さが観る者に伝わってくる。
けれど、顔も名前も知っている者同士が殺しあってまで何を得るのか。明らかに大局には何の影響もないところで、虚しさを分かっていながら引き返せない…戦争の悲劇を描いた作品は多いけれど、こういう描き方に触れたのは初めてだった。
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by treeintheheart | 2013-08-25 18:45 | 映画、DVD、音楽
「人間の真価は、その人が死んだとき、何を為したかではなく、彼が生きていたとき、何を為そうとしたかで決まる」。
これは、イギリスの詩人「ロバート・ブラウン」の言葉です。
作家・山本周五郎は自分の作品のテーマの根底に流すテーマとして、この言葉を大切にしていたそうです。

と、「高倉健のダイレクトメッセージ」で、健さんが以上の様なことを綴っていたと友人の日記にありました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


人が、人間社会の中で生きる限り、好むと好まざるに関わらず「他人に評価されてなんぼ」です。
「我為すことは我のみぞ知る」
と嘯いた高杉晋作さえも、周囲からかなりの援助や協力を受けていました。
つまり、他人に評価されなければ彼の「奇行」も成り立たなかったのです。

でも、一人の人間が、何を為そうとしたか、何を夢見ていたか、その芯のところが誰にわかるというのでしょう。
それを掬いとることなど、たとえ文学や映像作品と謂えどできるのでしょうか。
ただの滑稽な勘違いではないのか。
「人の真価」というものがそこで決まる、というのは、一見尤もらしいけれども、詭弁ではないのか。
せっかくの素晴らしい方の素晴らしい言葉に「イチャモンつける」ようで心苦しいのですが、「人の真価」という言葉遣いにはある種の欺瞞というか、軽さを感じてしまいます。
なぜなら、それが文学や映像作品に関わって語られているからです。

私達が日常生活の中で当たり前だと思いながら過ごしている事柄、行動、価値観…そういった物を別の視点や思考法(?)から構築し直して、時には全く別のものを顕在化して見せること。それが、文学や映像作品の存在意義のひとつなのではないか、と私は思うのです。
だから文学や映像作品の作り手は、自分が表現しようとしているものを信じている。いえ、信じなければ一歩も前に進めるものではない。
たとえ誰もが酷評し、無価値だ有害だと言ったとしても、自分は、今生まれようとしているものの価値を知っている。この作品は生まれるべくして生まれるのだ、という声を聴く。そんな経験をした製作者は少なくないはずです。
だからこそ、たとえどんなに「平凡な日常を淡々と描いた」ものであっても、或る意味、それが決して「何処にでもある」「共通の」ものでなく、如何に「かけがえのない」「唯一無二」のものであるか、を描いているものです。
つまり、文学にせよ映像作品にせよ、一般的な通念や価値観の縛りから抜け出たところに「真価」が存在するものなのではないでしょうか。

しかし、その営みを、「人の真価」という言葉と結び付けた時、それは既成概念や一般論やその他、作品が脱け出してきた巣穴に戻るような逆行が起きてくるような気がします。
少し乱暴な言い方になりますが、「善く生きる、とは何か?」という命題を借りて、一種の自主規制が起きる可能性を感じるのです。
作品中に描かれた人物が、「人の真価」というメジャーで計り始められた時、その人物が為そうとしていたこと、夢見ていたことは、むしろ決して表現できない手の届かないところへ行ってしまわざるを得ないのではないでしょうか。

一方で、文学も映像作品も、創り手のメッセージを伝え人々の共感を呼び起こそうとした時、それは仕方のない妥協なのかもしれません。読んで、観てもらってなんぼ…そこに文学や映像作品の限界があるのかもしれません。
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by treeintheheart | 2013-08-23 11:30 | 文化と言葉と…

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart