ブログトップ

すべてみどりになるまで

astrophel.exblog.jp

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず

<   2013年 07月 ( 14 )   > この月の画像一覧

昨日、ご近所の方々が数人、朝から道端に集まって何やら相談事のようだった。
自分の部屋にいてもところどころ聞こえて来てしまう。

「だって、そうでしょ」
「どうするの?一人一人はイヤよねえ」
「だから私、『そういうモノじゃないんじゃないの』って言ったのよ」

なんとなく不穏な雰囲気だ。
嫌だなあ、と思っていると、我が家の玄関扉の開く音がして、
「おばさぁん、いる~?」
と大きな声がした。
「ハイハイ、おはよう」
いそいそと義母が出ていく。
なにしろ大声なので、二階の部屋で扉を閉めていても丸聞こえだ。

二人の話を総合すると、要するに、ご町内の方が亡くなったのだが、ご家族からは「今日中に密葬するので」と言われたのだが、町内会としては「ああ、そうですか」と放っておくわけにもいかない、どうしたら良いだろう、という相談らしい。

義母がどのように言ったかは分からないが、町内会の世話役の方は、皆から集金して御香典を当の御宅に届けたがご遺族に断られ、また皆に返金して回ったり、その後、町内会からの御香典もご同様な憂き目にあって持ち帰ったり、代表として誰かご葬儀に…と手配しかけてこれまた断られたり、と艱難辛苦、紆余曲折で大変だったらしい。

…が、正直なところ、私はご遺族の方に同情してしまった。
「密葬で」と言われた時点で、特に親しくもないご近所の住人は「お呼びでない」ということだろうに、なぜ繰り返し町内会の慣例に乗っ取ったアプローチを繰り返すのだろう。
善意なのかもしれないが、ご遺族としては余計な事で煩わされた気分で、「勘弁して」と悲鳴をあげたかったかもしれない。

私の住んでいるのは下町で、善くも悪くも旧態依然なところがある。人と違うことを嫌う傾向も強い。
そんな土地柄については書き始めたらキリがないけれど、今回の件は、それが全てではないのだろう。

冠婚葬祭というものは、非常に公的な側面と極端に個人的な側面とを併せ持っている。
昔はどちらかと言えばパブリックな面が重視された。だから、場合によっては村で葬儀を出してやることもあったし、地元の名士の葬儀は祭りに近い雰囲気さえあっただろう。
一方、今は少子化も手伝って、個人の生き方や価値観を表現する最後の場としての意味合いが強くなっているような気がする。

そう考えると、昨日のちょっとした大騒ぎは、意外に奥が深いかもしれない。
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-31 12:36 | 日々
f0294866_029047.jpg

黒く乾いた種の中に
うずくまる淡色の芽

柔らかに渦巻く楕円の中に
押し込まれた宇宙が
地に墜ちるのを待っている


嬉しいときに蒔いても
悲しいときに蒔いても
同じように緑が芽吹く


昨日の種も
今日蒔く種も
いずれしなやかな葉を伸ばし
風にのって触れては離れ
重なりあい擦れあい
幾百の 幾千のさざめきとなって
果てしなく広がりゆく


失われた幼き日々
明かされた真実
果たされなかった誓い
そういったものを
嘆くのはやめよう

今指先からこぼれ落ちる
一粒の種の中には
還るべき地の甘やかな記憶を
みごとに甦らせて余りある
穣かな奇跡が満ちている
生まれ出づる新しい地平を
この足で踏みしめよう


種を蒔こう
種を蒔こう

たゆまず怠らず

陽光満ちる日も
し百々降る雨の日も

一つ一つに
祈りをこめて
思い出と希望をこめて


すべて みどりになるまで
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-30 00:29 | 詩、物語、短歌…
シリーズになるかどうかはわからないけれど、書きたいことは沢山あるので、とりあえず①と付けてみました。


以前にもどこかで書いたかもしれないけれど、私は、まどみちおさんが好きです。そして、まどみちおさんの名作「ぞうさん」が…


ぞうさん ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも
ながいのよ

ぞうさん ぞうさん
だあれが すきなの
あのね かあさんが
すきなのよ


まどみちおさんは、この童謡を作るために膨大な時間をかけたそうですが、改めて歌詞を読み、口ずさむと、「ああ…」って溜め息が出ちゃうくらいすごい。

童謡なのに、あんまり理屈っぽいことを言うのは、それこそ野暮ってモンですが、あえて言っちゃいますと…

簡単なやさしいことば、歌いやすそうな柔らかい音のつながり、すぐにおぼえられる少ない言葉数、短さ…本当に小さな子供の目線で作られてるんだなあ、と今更ながら気づきました。
それに、内容だってドラマチックです。
幼い子供のぞうさんが「おはなが長いのね」と、象の外見的特徴を誉められ(?)ます。するとぞうさんは「かあさんもながいのよ」と誇らしげに答えます。ぞうさんにとっては「お母さんと同じであること」がきっととても大事なことで、そこを誉められたのがスゴく嬉しかったんでしょうね。

さて二番です。「だれがすきなの」と尋ねられたぞうさんは、「あのね」と恥ずかしそうに答えます。大切な宝物を「ちょっとだけね」と特別に見せてくれる時のように「かあさんが好きなのよ」と打ち明けるのです。

ぞうさんとお話ししているのは、いったい誰なんでしょう。
ぞうさんの外側、誰もが認める特徴からはじめて、内面にまで入っていって大事な秘密を聞き出しちゃうなんて、凄腕のカウンセラーみたい。
…なんて、
だんだん妄想めいて来ちゃいましたが…( ̄∀ ̄)

まどみちおさんという人は、よく他人の相談にのってあげていたようです。人の悩みを聴いていると手の皮が剥けた、と何かに書いてありました。なんとなく聖痕を連想しました。キリストが磔刑にされた時に釘打たれた両手足、脇腹から血が吹き出るというアレです。本当に真剣に相手の身になって話を聞いてあげていたのでしょうね。

そんな方だったからこそ、あの童謡が作れたんだと、改めて思いました。
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-29 17:02 | 文化と言葉と…
数年前から〇〇力という言葉が色々なところで目につきますが、ごく最近、ある方が私には「鈍感力」が必要なのでは、と言う意味のことをおっしゃいました。

この数ヶ月、両親のことで心身ともに少し疲れがたまっていましたから、気を楽にするようにとアドバイスしてくださったのでしょう。
けれども、私はその時、「でも…」とおもいました。

私は元々鈍感なところがあって、きっと今までたくさんの人を傷つけてきたと思うのです。今でもふと昔の言動を思い出して「なぜあの時」と臍を噛むような想いをすることがあります。だから、「これ以上鈍感になってどうするの?」と思ってしまったのです。
鈍感になるということは、ある意味で人を気遣うより自分を守ることを選ぶということではないでしょうか?放っておいても多くの人間は自分を選びがちなもの。…もし意識的に鈍感になってしまったら、弱くて小さな者は踏み潰されてしまうか、必死の努力を嘲られて終わってしまうでしょう…樹上の蟻のように。
そして、もしそれが当たり前になってしまったら、やがて強い人にとっても生きにくい世の中になってしまうような気がするのです。
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-28 21:59 | 考えていたこと
両脚を伸ばして床に座り、静かに片方の脚を曲げた時、膝のお皿の骨がクルッと外側にずれるように動きますか?
コレは膝のお皿の骨が小さくて、膝全体をしっかり覆うことができないために起きる現象で、先天的なものだそうです。

実は我が娘の膝はコレなので、昨日、手術をしました。
半年前に左を手術し、二回目ですから、本人は落ち着き払っていましたが、私の方はドキドキしていました。それというのも、自分が一年間入院していた間に、とても沢山のことを見てしまい、どんな小さな簡単な手術でも、決してあなとれないことを知っているからです。
それに、娘は高校生の頃から疲れると時々不整脈をおこすので、全身麻酔のこともちょっと気になってしまったりするのを、
「…あっ、ダメダメ、これじゃ本人が不安になっちゃう…」
と言い聞かせつつ待っているうちに、呼び出しが来て、娘は点滴のポールをガラガラと押しながら手術室に入りました.


中学生の頃から娘は膝関節に痛みと違和感があり、何年間もあちこちの整形外科に通いましたが、はっきりした診断がつきませんでした。


ところが半年前、私に代わって夕食の支度をしていた娘が、いきなり
「いっっったあぁぁいっっっ!!」
と叫んだのです。
リビングで横になっていた私は、最初娘が自分の足に包丁を落としたのかと思いました。
「痛い~!!痛い!!痛い!!痛い!!痛い!!痛い!!…」
普段はとても穏やかでシッカリモのの娘のパニックにヨロヨロ駆けつけて見ると、娘がちょうどぎっくり腰になった瞬間のような中途半端な姿勢で、腰と膝を曲げたまま硬直。あとでわかったのですが、膝のお皿の骨が外側に外れてしまった状態だったようです。
後日娘の言うには、今までも時々「関節が外れた」みたいになったことはあるけど、「自分で治してた」そうなのですが、今回は痛すぎて治せなかったとか(゜∀゜;ノ)ノ

硬直した姿勢のまま救急搬送された病院で、当直の先生のところに「たまたま遊びに来ていた」のが膝を専門とする先生だったのは、本当にラッキーでした。
彼は娘の膝をちょっと診て、即「膝蓋骨脱臼(シツガイコツダッキュウ)」と診断を下しました。
手術の日が決まるまで、あっという間でした。

手術は膝のお皿をリボンで内側に向けて引っ張り、膝の骨にボタンで止めることをイメージしていただけたら近いかな、と思います。膝の辺りに2ヶ所ほど孔を開けて行う内視鏡手術です。
1ヶ月くらい松葉杖をつき、数ヶ月正座ができませんが、傷もあまり残りません。
夏の終わりには、元気に自転車を漕ぐ娘の姿が再び見られることでしょう。
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-26 12:31 | 日々
よくPositive thinking〉 と言われるけれど、実際のところ、何を以てポジティブとするのか、は結構難しいような気がする。
それは必ず当事者の価値観や文化的背景と結び付いているものだし、そういうものは千差万別だから。

次に、ポジティブにかんがえようという呼び掛けには、ほとんどの場合「良い結果を得る為に」という明確な目的がある。それ自体は当たり前のことなのだけれど、問題は誰にとっての良い結果なのか、という点だ。一歩間違えば、他者への配慮に欠けたり、問題を無かったことにして先へ進むような、「臭いものにフタ」的な考え方的な考え方に陥ってしまわないか、と危ういものを感じてしまう。

確かに物事を別の角度から見ると、それまで不幸、不運と感じていたことが実は意外と幸運なことだったと知るような経験は、私達誰もが持っている。その「発見」を偶然や他者からの指摘に頼るのではなく、自ら求めて発想の感度をあげる、モチベーションを上げる、そうすることで日々を闘い抜くパワーを自らの内面に取り込む。
それがpositive thinking というものなのだろう。

だとすれば、ポジティブに考えるには、今、自分が置かれている状況を正確に把握することが必要になる。ポジティブを発見することは、ネガティブを見据えることに繋がっていくのだ。
Positive thinking という言葉から、私はなんとなく「お気楽」なイメージを持っていたのだけれど、意外に精神的重労働なのかもしれない。

Positive thinking を提唱するのは、実業家、スポーツ選手、モデル等、日々を明確な闘いの中に生きている人が多いような気がする。自らを鍛え高めていくことを常に要求される時、この思考法が有効だというのは興味深い。Positive thinkingは意外と猛々しい側面を持っているのかもしれない。


政権が替わって以来、日本を覆っていた閉塞感が不思議なほどに薄らいで何となくポジティブだ。政策が実を結ぶ前から支持率は高い。それを後ろ楯に政府も強気なメッセージを送り続けているけれど…気の小さい私は心配になってしまう。信じていいの?大丈夫?そのPositive thinking は本物…?
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-20 09:10 | 考えていたこと
《愛する人を守る》ため、多くの映画やドラマの中で、ヒーローたちは立ち上がる。
マッチョでワイルドなヒーローはもちろん、引きこもりがちな弱々しいヒーローでさえ、愛する人(々)の危機の前に、時には内なる不思議な力が目覚めちゃったりして、彼の世界と愛する人を奇跡的に救ってしまうのが、一つのパターンである。極端な時にはほぼ全てが滅んで愛し合う二人だけ(?)が生き残って「新世界」に向けて旅立ったりして、
「いいの?ホントにいいの?」
と呟きたくなってしまう。

でも、それは二次元の話だ。笑っていればいいじゃない。現実にそんなことはあり得ないし…現実がソリッドな分、愛と夢をどこかで補充しなくちゃ。

…でも、ほんとうに?


かつて多くの戦争は、「愛する祖国と家族を守れ!」と兵士達を鼓舞してきた。
「愛する人を守れ」 は、誰にも逆らい様のない旗印だからだ。
けれども、愛する人を守りたいのは私達の側だけではなくて、先方も同じはず。だからこそ、双方とも譲れないのだ。
これからも、世界中のあらゆる国々、グループが、「自分達の戦いは《愛する人を守るため》だ」と主張するだろう。
今、日本はその一つになろうとしているのだろうか。


日本の夏は、まるで戦争月間だ。オキナワやヒロシマが随所で語られ、ドラマや映画が人々に「歴史の真実」を問いかける。
しかし、8月の終わりとともに、全ての関心はもうひとつの悲劇へと移行する。9月は初日から「防災」に埋め尽くされ、戦争にまつわる課題は次回へと持ち越される。印象に残るのは非常にセンチメンタルな部分…千羽鶴や人気タレントの演じたラストシーンだけだったりする。
この状況で当事者以外は戦争について考え続けるのは難しい。
それだけに、一種の洗脳、イメージ操作あるいは刷り込みしやすい状態にあるような気がするのは、考えすぎだろうか。



私達が子供のころ、日本全体を覆っていた反戦感情はもっと強かった。
それは、戦争体験者が社会を動かしている世代の大部分を占めていたからかもしれない。
戦争というものが、人間の生活や社会を、人間そのものを、どんなに変えてしまうか、破壊してしまうかを身を持って経験していた人々の厭戦感情は、内面の深いところから出ていただけに揺るぎなかった。

けれども、戦争を経験していない私達は、戦争というものをとても軽く考えているような気がする。
戦争は何も解決しない(せいぜい次のステップへ押し出すことはあっても)のに、喩えて言えば、今まで使ったことのない、ラスボス用のレアなアイテムのように、縺れた糸を閃光とともに解決してくれるように思っているような気がしてならない。

実際には、子供達の、あるいはPTAや仕事上の小さな対立でさえ解決が難しいのに、なぜ戦争が何かを解決するように錯覚してしまうのだろう。


「愛する人を守る」ことが悪いのではない。どのように守るのか、を考えていくことが大切なのだ。

我が子であれ他人の子であれ、表面的な美辞麗句に無意識のうちに影響を受け、悲劇へと駆り立てられる駒になって欲しくない…一人の母として、そう思わずにはいられない。

夏が来る度に繰り返されてきた平和の誓いだが、今年の夏は「いつもとは違う」予感がしてならない…
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-19 08:32 | 考えていたこと
「花咲き山」「モチモチの木」「ちからたろう」等でおなじみの作者が秋田のあたたかく迫力ある言葉で語る、でっかい男の物語である。

八郎は樫の木のようにすいすい伸びて、筋肉はカンカン固くて、見てるものはホーイと笑って気持ちよくなってしまうような山男だ。それでも、もっともっと大きくなりたくて山から海へ向かって駆け降りてきては、海へ向かって
ウォーイ ウォーイ
と叫ぶ。その頭には色々な鳥が巣をかけて
ピチピチ、チイチイ、チュクチュク、カッコー
と囀っている。八郎も小鳥達を驚かさないように気遣かっていたりするのが微笑ましい。

そうやって呑気に暮らしている八郎だったが、ある日、男の子が浜辺で泣いているのに出会う。見るとが真っ暗になり白い歯を向いてやって来るのだ。

海岸に固まって震える村人達。泣き叫ぶ山。いつかみた木版画のような風景の中に八郎がやってくる。まるで、生きて、自由に動けるのは彼だけのように。

押し寄せる海に、岩を投じ、山を投じ、ついには自らの身を投じる八郎の叫びは、しかし天を貫くほど明るい。

「分かったァ!おらがなして今までおっきくおっきくなりたかったか!おらはこうしておっきくおっきくなって、こうしてみんなのためになりたかったなだ、んでねがわらしコ!」

八郎の頭を波が越え、髪の中の小鳥達が飛び立つ。それを見て、わらしコが手を叩いて喜ぶ。それに応えるかのように、八郎の沈んだ後の波上の泡がはじける。

語り部は、わらしコが八郎の後を継ぐ男になっていることを語って物語を終える。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


斎藤隆介に出てくるオトコ達は、「ちから太郎」に代表されるように、荒削りでパワフルで、大きな足で目標に向かってドスドス歩くと周り中のものが跡形もなく薙ぎ倒されてしまうようなイメージがある。
実際にそんなオトコがいたら堪ったものではないけれど、ただの傍迷惑野郎ではなく、彼らの多くはなぜか微かな悲劇の影を(というより「死にキャラ臭」を)漂わせている。
それは多分、彼らがあまりにもピュアだからだ。

彼らの欲望と言ったらほぼ食欲と「大きくなりたい」「強くなりたい」に限定されている。食欲は、生きるための必要最低限の欲求であるが、大きさ、強さをこれほどまでに求めるのはなぜだろう。
力太郎の場合は敢えて単純化しているから、主人公はただ楽しく大きく、強くなって行く。
けれども、八郎の場合は、主人公が自らの課題として意識し続ける。
八郎が、殆ど嬉々として津波に立ち向かって行くのは、自らの問いに対する答えを見いだしたからなのかもしれない。その喜びの前には死さえ軽やかな光を帯びるようだ。


私達は生きていく上で様々な欲求を持ち、それを叶えながら、あるいは諦めたり折り合いをつけたりしながら日々を過ごしている。

「お洒落をしたい」
「金持ちになりたい」
「地位や名誉を手に入れたい」
などという欲望が、八郎にそぐわないことは誰が見ても明らかだ。
しかし、八郎には
「友達がほしい」
「誰かに理解されたい」
「愛されたい」
という欲求すらないように思える。
こういった欲求は、多分誰もが持っていて、ある意味では「人間らしさ」の表明のようなものなのに、どことなく彼とは相容れない感じがする。
なぜだろう。
彼が「人間」ではないからだろうか。
彼の巨大さが、彼に疎外感をもたらしていたか否かはわからない。けれど、一人でいる彼の姿は「孤独」というより「自由」という言葉がふさわしい。(別に二者択一なわけではないけれど)
彼を見ていると「仲間が大切」「愛する人の為に〜」というテーマで動くヒーローたちが、何だか小さく感じられる。
なぜならば、それらは「友情」とか「愛」の字を纏ってはいるけれど、その根底には「自分を潤す」という動機があって、とことん無私な彼とは遠い存在になってしまわざるをえないのだ。
そんな気がした。

それと同時に、彼はもっと大きなモノに包まれていて、それを感じ取っているから、私たちが齷齪求める「愛」「友情」には目もくれないのだろう。それなのに、というより,だからこそ里に危機が迫ると、誰かをともなうこともなく、相談も、力を合わせることもなく、ただ一人で、いともあっさり生命を投げ出してしまうのだろう。
彼は村人達に
「勇気を出して一緒に立ち向かえ」
「自分達の村は自分達で守れ」
という要求はしなかった。
村人達が小さく、心配性で、来る日も来る日も大地の声を聴き、太陽や雨風から作物を守っていることを八郎は知っている。それが村人達の戦いであって、八郎には出来ないことだ。
村人達には、八郎が海に沈んだあと、潮をかぶった土地を一面の黄金色の稲穂の波に変えるための長い長い戦いがあり、それが八郎の戦いと等しく尊いものであることを、八郎は理解している。

生きることは自分というピースがピタリと収まる場所を見つけること。八郎にとってはそれだけのこと、なのかもしれない。
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-18 18:20 | 子供たちの記録
2年前の日記を、今、連絡のとれない妹へ贈ります。



生涯忘れられない贈り物があるとすれば、そのなかの一つが、妹からもらったミモザの花束だ。恋人でも夫でもないのがちょっと残念だけど。
高校生のときだったか
「誕生日に何がほしいF65B.gif
と妹がきくので冗談半分に
「ミモザの花束」と言ったら
本当に買ってきてくれたのだ。
ワサワサとした大きな花束を
抱えた小柄な妹はミモザの中に
顔が埋もれて見えた。3月はまだミモザには早いから
随分捜しただろう。
昨日、ふと立ち寄った店先に
ミモザのパルファムを見つけた。
摘みたての草の青さが混じった冷たい香り。
こんなだったっけF65B.gif
覚えていない。
覚えているのは
花束を抱えた小さな妹。
あの頃は仲がよかったんだな…
両親の病気を巡って
意見が食い違ってから
疎遠になってしまったけど。
電話してみようかな…
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-13 00:10 | 詩、物語、短歌…
戦わない


という選択肢も
有るのでしょうか

家族を護るために




自分を護ることは
悪いことなのだ
と 何となく
思って来ました

私の戦い方は
いつもそう
手の内を全部さらして
盾もなく
援護もない
身を隠す場所もない

誠意だけが武器だ
と言えば
聞こえはいいけれど
自らの正しさをのみ
押し付けて
ひとも自分も傷つける




もう戦いたくない
と、あの子は言った

自分の戦いを
自分が始めた戦いを


自分が正しいと思っても
奴を信じる人だっている
巻き込むなって思う人も
でも、どうでもいいの


私は
説き伏せる言葉を知らない


じゃあ
あなたを信じた人は
どうなるの?
あなたが巻き込んだ人は?
失った生命は?

もう、どうでもいいんだよ

戦い始めたら
最後まで戦わなくちゃ
あなたに力を貸してくれた
人のためにも
ちゃんとはっきりさせなくちゃ
あなたの潔白を

そんなことしても
どうにもならない…

あきらめないで、
途はきっとある

どうしてママは
いつもそうやって
私を追い詰めるの
希望を語る振りをして
未だ駄目だ
考えが足りない
頑張りが足りない
配慮が足りない
辛抱が足りないって…
もううんざり
完璧にやったって
病気になっちゃったら
何にもならないじゃない
ママみたいな人生は嫌


そうよ
いくらでも言いなさい

悔し紛れのパラドックス

嘗て私が
言いたかったこと
自分に向かって
言いたかったこと
それを今
私はあの子に言わせてる




でも

護ってもよかったのかな


…ほんのすこしなら
[PR]
by treeintheheart | 2013-07-12 08:42 | 詩、物語、短歌…