<   2013年 06月 ( 14 )   > この月の画像一覧

妻ある人へ

返信遅くてごめんなさい。
呆れてものも言えなかった
わけではないんですよ(←イヂワル)
台風のせいで体調を崩してしまい、起き上がれないくらいの脱力感で…
まるで、ふるーい実写もののスライムみたいな妖怪になった気分でした。

ゴロゴロしながら、頭の片隅で何通りもお返事を考えました。

ドラマの様だと思いましたし、あなたがおっしゃるせいか、素敵だな、とさえ思いました。
一方で、奥さまと力を合わせなければいけないはずの困難な時に…と自分のことに引き換えて考えました。
私が夫のそういう行動を知ったら、どうするだろう。
責められないだろうな…
普段どれほど私のことが負担になっているかと思うと…
ただただ悲しくて寂しくて
胸の奥に小さなダイアモンドくらいの氷を抱えたようになるだろう。
それから、自分を試すだろう。
どこまで今まで通り、自然に、何事もなかったように振る舞えるか…

…なんて


でもね、私は思うのです
お二人は逢うべくして会ったのだと

楽しい会話、メールでのやりとり…素直になれて、自分の良いところをそのまま出せて、こんなに長い間離れていたのに、どうしてこんなにわかってくれるんだろう

そんな時を過ごされたかもしれませんね


男のかたはどうなのかわからないけれど、女はその思い出に支えられて、後の日々を生きていけるものなのです。
沢山の小さな真珠を綴った首飾りのように、懐深く隠し持っていて、辛いときに時々それを取り出して見るの。
ああ、私にはあの人がいる。
この空の下の何処かに
私を大切に思ってくれる人がいる…って

賢い方なのだと思います。
もし、それ以上長くなれば、夢のような日々では終わらないでしょう

貴方のためにも
ご自分のためにも
色々お考えになったのでしょうね

素敵な方ですね
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-26 06:04 | 日々
「荒波をくぐり抜けて大洋を渡ってきた大きな船も、港に入る時には小さな艀に曳いてもらいます。大きければ大きいほど速度を落とし、自らの立てる波さえ憚って、眼下に散在する小さな船を気遣いながらゆっくりと慎重に…」
と学生の時に聞きました。
今思えば、その頃は先生のおっしゃる意味が全くわかっていませんでした。

この数年、実家の両親の余命というものを考えざるをえなくなったり、義母の変化を目の当たりにするにつけ、この言葉を思いだすことが多くなりました。

日本には「枯れる」という言葉があります。
 
欲望や我の強さがなくなり、人生を達観した姿を表しているのだとおもいますが、いわば人生の闘いの第一線から退いた精神の有様を、否定的に捉えるのではなく、果敢に苦難に立ち向かったり、人生の目標を知恵と努力で見事にクリアすることより、むしろ一段すすんだものとして捉えている言葉なのでしょう。とても温かい、含みのある言葉だと思います。

人生の荒波に立ち向かうこと、上昇気流に乗って遠く高く羽ばたくことだけを、上質な充実した生き方と捉えていたら、年老いていくことは、惨めな負け組に転落していくことだったり、色褪せた硬直した時間を耐え忍ぶことを意味するかもしれません。
ですが、老いることを、「今までとは別の価値観に移行していくこと」と捉え直すことで、自由で軽やかな、素地のままの自分を生きる時間にできるのではないでしょうか。

今は他人事としてこんなことを言ってますけれど、上手に老いていくには、案外早くから少しずつ心の準備をした方がいいのかなあ…、とか考えてしまう今日この頃なのです。

幹に充分な栄養を与えるために木の葉が紅葉することはよく知られています。でも人間は幸か不幸か自動に「枯れて」いくわけではありません。
「生涯現役」「若い者に負けるか」と頑張るのも、困難だけど素敵なことです。どちらにしても、それまでの人生が反映されることに変わりはありません。結局、「今を丁寧に生きていく」ということに尽きるのかもしれませんね。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-21 00:19 | 考えていたこと
【100匹の羊がいました。
その中の1匹が迷子になってしまいました。
羊飼いは残りの99匹を置いて、群れからはぐれた1匹を捜しに行き、連れ戻しました。】


新約聖書の中の有名な「善き羊飼い」の話です。
でも…変ですよね。あとの99匹を置いていくなんて。現実の、普通の羊飼いならそんなことはしないのではないでしょうか。
「なぜ、これが善き羊飼いなんだろう」
と、ずっと思っていました。

でも、最近解ったことがあります。
それは、自分が99匹の側からのみ考えていた、ということです。
「自業自得じゃない」
「自分で何とかしたら」
というご意見にも一理ありましょう。
でも、その根底には、
「自分は決してその一匹にはならない」
という自負があるのではないでしょうか。
そういえば少し前、どこかの国の首長が「最大多数の最大幸福」とかおっしゃってましたっけ。確かに民主主義とは、そういうものかもしれませんが。

迷子になった羊はやんちゃで、羊飼いの言い付けを守らなかったのかもしれません。
それとも、体力が無くて群れから遅れがちだったのでしょうか。
或いは好奇心旺盛で、何かに気を取られているうちに逸れてしまったのでしょうか。
いずれにしても、今、その羊は生命の危険に曝されていて、羊飼いが助けに行かなければ、いずれ死んでしまうでしょう。
羊飼いは、群れとしてでなく一匹一匹を覚えていた。どの子もかけがえのない存在だから、このちょっと不出来な羊を捜しに行ったのでしょう。

ごく大雑把に言えば、多くの人は、自分や家族や愛する人たちの幸せを願い、その実現のためにそれなりにがんばっています。
それでも、思いがけない出来事が起きて、自分が或いは大切な家族や友人が、その1匹になったと感じてしまうことがあります。
その時、この羊飼いの行動は、また違って見えるのではないでしょうか。

生命の重さに軽重はない、とはよく言われることです。
けれども、私達は1匹のために何かをすることを無駄だとか非合理的だと感じてしまうことはないでしょうか。
そして
「仕方ないよね」
と言いながら向こう側へ渡る橋を切り落としていないでしょうか。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-20 17:03 | 聖書から
まだ生まれていない生命にも、今回の原発事故は、影響を及ぼしていくことだろう。
新しく生まれてくる生命にも、チェルノブイリ以上の確率で異常が見られるのではないか。あらゆる手段をこうじて悲劇を防いでほしい。
しかし、それ以上に、ハンディを持って生まれた子供達が生きやすい社会であってほしいと思う。

かつて優生保護法という法律があった。(1996年9月に代わって母体保護法施行)「優生学上不良な遺伝のある者の出生を防止し、母体の健康を保護すること」を目的とした法律である。
細かい議論は省くが、つまりその根底には
「生命には優劣があり」
「この世に生まれてきてはいけない劣った生命がある」
という考えがある。
このような考え方が再び法制化されたり、それに基づく行政が進められていくことはまさかないとは思うけれど、私達はたとえハンディのある子供達が社会に満ち溢れたとしても、社会全体でサポートしていくのだと今から決意しておくべきなのではないか、と思う。

子育てというものが、心身ともに大変な、努力と根気のいる仕事であることは、一人の不出来な母親として日々感じてきた。
まして、我が子がハンディを持って生まれてくれば、その子を支え育むことは並大抵の苦労ではないだろう。その心情や負担を理解しきることは出来ないけれど、せめてその思いや努力が実るような環境を作る手助けが出来たらいいと思う。
特に今回の原発事故は、人災としての側面が大きい。社会全体でサポートしていくのは当然だと思う。
「障害を持つ子を育てるのは大変なのだから」
という議論は、勿論あるだろう。
しかし、それが被災した人々でなく、行政や「無傷の」人が発言する時、自分の靴に泥がつくのを恐れるような、何かしら異質なものを感じてしまうときがある。
「子供は天からの授かり物」
と、昔はよく言ったのだという。
ならば、私たちは今、天に試されているのかもしれない。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-20 12:33 | 考えていたこと
けれども、心優しい人々が行うこのような取り組みが基本とはいえ、個人の美徳と努力に頼るのは限界があります。
今、震災報道は(原発関連のニュースは別として)「復興」へとシフトしつつあります。前進は大切なこと、一刻も早く生活を再建しなければ、さらに多くの被害が生まれます。しかし、その狭間にこぼれ落ちていく思いを救いあげることを、単に瑣末な個人任せにして佳いこととは思えません。

つい先頃まで、自殺が大きな社会問題として取り上げられていました。
その原因を追求していくと、「格差社会」「自助努力」といったキーワードが見えてくるでしょう。
日本社会は、戦後の高度成長期から幾度かの不況とバブル景気を経て、後退期(?)に入っていると言われているらしいのですが、(すみません、経済は全くわからないのでF7CE.gif)多くの社会的なシステムや思考法が、世界史的にも奇跡と言われる好景気の時代に確立されたままのような気がします。
日本人の多くが、その時代を基準として、例えば「新入社員とは」「営業とは」「復興とは」「ご近所付き合いとは」等を考えています。
「進歩」「発展」「効率」「上昇」等の価値観ばかりが評価される社会のままで「復興」「再建」が進められていけば、時間が経つにつれて歪みが大きくなるような気がしてなりません。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-19 14:34 | 考えていたこと
被災地の苛酷な状況下で、「希望が持てない」のではなくて、希望を手探りすることさえ自ら封印しようとしている人々がいます
そのことに気づいたきっかけは、たまたま高齢者の方でしたけれど、事は高齢者に限りません。
「私が生きていることは迷惑だ」
等の思いを爆弾のように抱えている人々、自分に生きる権利がないと思っている人々が、「生きる希望を見出だす」という皆と同じスタートラインに立てるようになるためには、何が必要なのでしょうか。

ある番組で阪神淡路大震災の経験から医師になったという女性が、
「立ち直るために何が必要か」
という問いに対して
「ことばです」
ときっぱり即答していて驚きました。
どういう言葉をどうかけることを言っているのか、まで報道されなかったのが残念です。
また、被災者の心のケアの為に、巡回して話を聞いてあげている医師の方についてのレポートもありました。息子さんをおいて逃げてしまった、「わたしが息子を殺した」と泣きながら自分を責める女性の肩を抱いてあげる医師の姿は胸を打ちました。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-19 14:33 | 考えていたこと
東日本大震災直後のTV番組で、寝たきりの夫を抱えて避難所へいくことを拒むおばあさんが、避難を説得する自衛隊員に
「どうなってもいいら、放っておいてください」
と懇願する姿に暗澹たる気持ちになった。
被災地では誰もがぎりぎりのところで生きている。だから…
「周囲に迷惑をかけたくない」
「足手まといになっては申し訳ない」
おばあさんのそういう気持ちが救助を拒んだのだろう。
「だれもが等しく、生きる権利があるのだ」
「幸せを追求していいのだ」
と、おばあさんに言うことは何の意味もない。むしろ追い詰めるだけだ。
おばあさんのような立場の人が
「助かりたい」
と堂々と言える社会であるためには、何が必要なのか、私達は『今』考えるべきではないだろうか。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-19 14:22 | 考えていたこと
私の両親は二人とも癌で、特に母は余命宣告も受けています。そんな母を父は一人で介護し続けています。80歳代の父の負担は並大抵のものではありません。
私自身持病があり、ひとりで駆け付けることもできない身体なのですが、週末毎に夫とともに訪れては世話を焼いたのです。
家事の手伝い、下準備はもちろん、病状について主治医の話を聞いたり、市の福祉課のかたやケアマネージャーさんと連絡を取り合ったり、親戚に相談したり…私としては精一杯のことをしている積もりでした。
ところが父には
「残された日々を、出来るだけ何もなかったかのように過ごしたいんだ。頼むから心を折れさせないでくれ」
と言われました。
さらに病状が進んだ母は、認知症状も出始め、毎日私を敵視した電話をかけてきます。
私が家の物をあれこれ盗んで行く、というのです。たぶん、私が家のあれこれに手を出したり様々な人と私が打ち合わせをしたため、不安が募ったのでしょう。
「あれほど聡明で優しかった人が」
と私は毎日泣きました。
「私は出来るだけのことをしてきた。なのに何故受け入れてもらえないのか。何が間違っているのか。放置はできない、でも手を出せば関係は悪化する。私はどうすればよいのか。」
そんな中で考え続ける足掛かりとしたのがマルタとマリアの物語でした。

私は今まで両親のことを誰にも相談したことがありません。私の覚悟が決まっていなければ、どんなに優しい言葉をいただいてもそれをきちんと受け止めることができないと思ったからです。
でも《マルタとマリア 2》で書いたように、ようやく答えの一部が見つかったのでした。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-17 08:53 | 父母の記録
先日の日記で書いた『マルタとマリア』の話ですが、私なりの結論が出ました。でもこれは全くの私見ですので、クリスチャンの方や宗教学者のかたがたは、お笑いになるかもしれませんが。

マルタとマリア…二人の目的は《お客様をもてなす》ことでした。もてなしに求められることは、客が望むこと(やり方)をしてあげることです。
前回この物語について考えた時、私はこの視点を軽んじていました。だから自分が一番したいこととして二人の行動を考えてしまった。けれど、おもてなしとは本来お客様の意向、状況が最も大事なはずです。

では客イエスは何をしたかったのか。もちろん彼だって飲み食いはしたい。(聖書中彼は《大酒飲みの大食漢》と言われています)けれども彼が家にやってきたのは弟子や人々に神の教えを広めるため、つまり話をするためでした。
人に教えるような家柄や種族に生まれておらず、しかもそういう人達に反する教えを広めようとしている彼の周りには、物騒な一派が遠巻きにしてイエスのすきを伺っていました。『話をする』ことはイエスにとって命懸けのしごとでした。
だからこそ、マリアは良識ある行動を捨て話を聞くことを選んだのではないでしょうか?多分マルタからの批判も覚悟して。それがイエスの志というか心意気を汲むことだと思ったからです。
そう考えた時、
【この世で大切なことはそう多くはない、いや、たったひとつなのだ】
というイエスの言葉は、いっそう心に染みます。

とても非日常的な話題かもしれません。実際私達は、より有能で良識と気配りがあるマルタ型の人間であろうとするし、そうでなければ社会は成り立たないでしょう。マリアはもしかしたら実生活では非常識で無能だと思われていたかもしれません。でも、彼女は本質を見抜く透徹する目を持っていたし、自分を無にして相手を受け止める(いわゆる癒し系ではなく)強さを持っていたのでしょう。
聖書は宗教書ですから「神様の話をきいた」マリアの行動を褒めています。しかし、私は二人は表裏一体だと思うのです。私達は大半をマルタ的に過ごす、でも煮詰まった時に救ってくれるのは、マリア的なスタンスかもしれません。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-17 00:10 | 聖書から
大切なお客様がいらっしゃったとき、あなたはどうしますか?

マルタは台所で忙しく立ち働いていました。居間では先生とその弟子たちが語り合っています。大勢のお客様です。マルタはひとりで大忙し。
ところが妹のマリアは、居間でお客様に混じって先生の足元に座り、先生の話を聞いています。マルタはぶち切れました。
【先生F6BE.gif妹に、私の手伝いをしろとおっしゃってくださいF3F1.gif
すると先生は言いました。
【マルタよ、あなたはあまりにも多くのことに心を砕いている。けれどもこの世で大切なことはそう多くはない、いや、たったひとつなのだ。マリアはその一番善いものを選んだのだから、それをとりあげてはならない】


これは新約聖書中の話です。先生とはイエス。
最初この話をよんだとき、
「それはないでしょうF3F0.gifマルタがかわいそうF3F1.gif
とはらがたちました。
大抵の主婦は腹をたてるんじゃないかな。
なぜマルタじゃだめなのF65B.gif
マリアがなぜ高評価なのF65B.gif
私だったら、やはりマルタのように、一生懸命おもてなしをしただろう。
大好きな先生と仲間たちのために…。
【私だって、お話を聞きたい。だけど、疲れている皆には美味しいご馳走で元気を出してもらいたい…】
そういうマルタの気持ちに対して、イエスはなぜあのような言葉を返したのでしょう?

この問いは、私の人生を生きていく課題のひとつです。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-15 19:17 | 聖書から

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart