カテゴリ:聖書から( 4 )

「愛について」

f0294866_65571.jpg

イングランドのサッカーチーム【リヴァプールLiverpool】の応援歌として有名で、最近では東京FCの応援でも歌われる"You'll Never Walk Alone"の全歌詞を知りたくて検索していたら、次のような言葉まで引っかかって来ました。

結婚式等でよく引用される愛について書かれた新約聖書の言葉ですが、一方で、故ダイアナ妃の葬儀でも引用されたそうです。



Love is patient,
love is kind.
It does not envy,
it does not boast,
it is not proud.
It is not rude,
it is not self-seeking,
it is not easily angered,
it keeps no record of wrongs.
Love does not delight in evil
but rejoices with the truth.
[I Corinthians 13:4-6]


愛は寛容であり、
愛は親切です。
愛はねたまず
愛は奢らず、
愛は高ぶらず。
礼節を知り、
自分の利益を求めず
滅多に苛立たず
人のした悪を思わず
不正を喜ばずに
真理を喜びます。


この言葉をそのまま実行しようと思ったら、とてもとても大変そうですね。

私は中学生の時、この文章(聖句というのですが)を知って、読んだ瞬間、嫌いになりました。

だって!
この文章を書いた聖パウロによれば、
「愛とは、辛いことを耐え、
自分がやりたいこと
を我慢すること」
に尽きるようです。

「そんなふうに自分をいい子に仕立てて、心を偽っても、それは本当の愛情じゃない。
本当の愛なら、自然のままに内側から溢れでて来るものじゃないの?
自分を見失ってまで愛を手に入れたくない」
などなど生意気なことをたくさん考えました。

今はもう、そんなふうには考えませんが(笑)


愛という言葉を「あの人は」と置き換えてみてください。
親切で辛抱強く、穏やかでありながら正義感のある人…
確かに、そういう人に傍にいてもらえたら安心だろうな。
中でも、「人のした悪を思わず」という個所です。失言、失敗の多い私にはありがたいです。
[PR]
by treeintheheart | 2013-11-14 06:55 | 聖書から
【100匹の羊がいました。
その中の1匹が迷子になってしまいました。
羊飼いは残りの99匹を置いて、群れからはぐれた1匹を捜しに行き、連れ戻しました。】


新約聖書の中の有名な「善き羊飼い」の話です。
でも…変ですよね。あとの99匹を置いていくなんて。現実の、普通の羊飼いならそんなことはしないのではないでしょうか。
「なぜ、これが善き羊飼いなんだろう」
と、ずっと思っていました。

でも、最近解ったことがあります。
それは、自分が99匹の側からのみ考えていた、ということです。
「自業自得じゃない」
「自分で何とかしたら」
というご意見にも一理ありましょう。
でも、その根底には、
「自分は決してその一匹にはならない」
という自負があるのではないでしょうか。
そういえば少し前、どこかの国の首長が「最大多数の最大幸福」とかおっしゃってましたっけ。確かに民主主義とは、そういうものかもしれませんが。

迷子になった羊はやんちゃで、羊飼いの言い付けを守らなかったのかもしれません。
それとも、体力が無くて群れから遅れがちだったのでしょうか。
或いは好奇心旺盛で、何かに気を取られているうちに逸れてしまったのでしょうか。
いずれにしても、今、その羊は生命の危険に曝されていて、羊飼いが助けに行かなければ、いずれ死んでしまうでしょう。
羊飼いは、群れとしてでなく一匹一匹を覚えていた。どの子もかけがえのない存在だから、このちょっと不出来な羊を捜しに行ったのでしょう。

ごく大雑把に言えば、多くの人は、自分や家族や愛する人たちの幸せを願い、その実現のためにそれなりにがんばっています。
それでも、思いがけない出来事が起きて、自分が或いは大切な家族や友人が、その1匹になったと感じてしまうことがあります。
その時、この羊飼いの行動は、また違って見えるのではないでしょうか。

生命の重さに軽重はない、とはよく言われることです。
けれども、私達は1匹のために何かをすることを無駄だとか非合理的だと感じてしまうことはないでしょうか。
そして
「仕方ないよね」
と言いながら向こう側へ渡る橋を切り落としていないでしょうか。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-20 17:03 | 聖書から
先日の日記で書いた『マルタとマリア』の話ですが、私なりの結論が出ました。でもこれは全くの私見ですので、クリスチャンの方や宗教学者のかたがたは、お笑いになるかもしれませんが。

マルタとマリア…二人の目的は《お客様をもてなす》ことでした。もてなしに求められることは、客が望むこと(やり方)をしてあげることです。
前回この物語について考えた時、私はこの視点を軽んじていました。だから自分が一番したいこととして二人の行動を考えてしまった。けれど、おもてなしとは本来お客様の意向、状況が最も大事なはずです。

では客イエスは何をしたかったのか。もちろん彼だって飲み食いはしたい。(聖書中彼は《大酒飲みの大食漢》と言われています)けれども彼が家にやってきたのは弟子や人々に神の教えを広めるため、つまり話をするためでした。
人に教えるような家柄や種族に生まれておらず、しかもそういう人達に反する教えを広めようとしている彼の周りには、物騒な一派が遠巻きにしてイエスのすきを伺っていました。『話をする』ことはイエスにとって命懸けのしごとでした。
だからこそ、マリアは良識ある行動を捨て話を聞くことを選んだのではないでしょうか?多分マルタからの批判も覚悟して。それがイエスの志というか心意気を汲むことだと思ったからです。
そう考えた時、
【この世で大切なことはそう多くはない、いや、たったひとつなのだ】
というイエスの言葉は、いっそう心に染みます。

とても非日常的な話題かもしれません。実際私達は、より有能で良識と気配りがあるマルタ型の人間であろうとするし、そうでなければ社会は成り立たないでしょう。マリアはもしかしたら実生活では非常識で無能だと思われていたかもしれません。でも、彼女は本質を見抜く透徹する目を持っていたし、自分を無にして相手を受け止める(いわゆる癒し系ではなく)強さを持っていたのでしょう。
聖書は宗教書ですから「神様の話をきいた」マリアの行動を褒めています。しかし、私は二人は表裏一体だと思うのです。私達は大半をマルタ的に過ごす、でも煮詰まった時に救ってくれるのは、マリア的なスタンスかもしれません。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-17 00:10 | 聖書から
大切なお客様がいらっしゃったとき、あなたはどうしますか?

マルタは台所で忙しく立ち働いていました。居間では先生とその弟子たちが語り合っています。大勢のお客様です。マルタはひとりで大忙し。
ところが妹のマリアは、居間でお客様に混じって先生の足元に座り、先生の話を聞いています。マルタはぶち切れました。
【先生F6BE.gif妹に、私の手伝いをしろとおっしゃってくださいF3F1.gif
すると先生は言いました。
【マルタよ、あなたはあまりにも多くのことに心を砕いている。けれどもこの世で大切なことはそう多くはない、いや、たったひとつなのだ。マリアはその一番善いものを選んだのだから、それをとりあげてはならない】


これは新約聖書中の話です。先生とはイエス。
最初この話をよんだとき、
「それはないでしょうF3F0.gifマルタがかわいそうF3F1.gif
とはらがたちました。
大抵の主婦は腹をたてるんじゃないかな。
なぜマルタじゃだめなのF65B.gif
マリアがなぜ高評価なのF65B.gif
私だったら、やはりマルタのように、一生懸命おもてなしをしただろう。
大好きな先生と仲間たちのために…。
【私だって、お話を聞きたい。だけど、疲れている皆には美味しいご馳走で元気を出してもらいたい…】
そういうマルタの気持ちに対して、イエスはなぜあのような言葉を返したのでしょう?

この問いは、私の人生を生きていく課題のひとつです。
[PR]
by treeintheheart | 2013-06-15 19:17 | 聖書から

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart