カテゴリ:父母の記録( 26 )

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昨日は母の四十九日忌法要でした。

壇那寺は千葉にあり、幼い頃過ごした町並みはすっかり整備されて知らない町の様でしたが、それでも所々古い家や下って行く脇道に見覚えがありました。


昨日は入学式が多かったようですね。遠い日、私もその道を母と歩き、入学式へ行ったはずなのですが…何も憶えていません。

母は何を着ていたのだろう、とふと思いました。着物だったはずです。桜柄だったかもしれません。紫色が好きな人でしたから、グレイに近い薄紫に桜と小菊の地紋の無地の紋付きでしょうか。頭の中で色々と想像しているうちに、車はお寺についたのでした。


亡き人の
桜襲ねに 合わせむと
選びし帯の
あをぞ哀しき


満開と
さざめく子らに
重ねたる
桜の色も
けふは薄墨



北向の和室で着物を着付けている時の母が好きでした。母は幼い私にとって、その欠点までもが憧れの存在だったような気がします。

この数年間に起きたことも、いつか色々な思い出とともに並べて話せるようになるとよいのですが。
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by treeintheheart | 2014-04-14 11:04 | 父母の記録

名義変更(2013/03/19 01:22)

さまざまなる煩わしきことども、亡き父より引き継がむとして我が印を押さむとせるに、父の印の縁少し太くなりて滲むを見つけて詠みたる

遺されし 
朱き印の 滲みけり
滴り落ちし 涙にも似て
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by treeintheheart | 2014-04-14 10:17 | 父母の記録

父の時代

1月5日は父の命日だった。
迷ったあげく年も押しつまってから御寺に連絡し、お参りさせていただくことにした。きちんとしておかないと口うるさい父が、まだ私の後ろで一言言いそうで…と考えてしまうのが癪だったが。


父は若い頃、神社仏閣を崇めるタイプではなかった。同時代の生意気な青年と同じように無宗教=進歩的という戦後の風潮に乗っかった部分もあるが、生まれてから終戦、そして母と結婚するまでの人生が、言わば運命に翻弄され続けたものだったから、自分の目に見えない、手の届かないところに幸不幸の原因を想定し帳尻を合わせることを反って潔しとしなかったのだろう。
「自分の人生は全て自分だけが決める」
とはあまりにも無茶な想定だが、そう思うことで彼は何とか再び走り出すことが出来たのかもしれない。

多分、幸いなことに時代がそれを後押しした。高度成長期とは勤勉や努力が報いられた時代だったのだと思う。人はわずかながらでも毎年収入が増えることを予測できたし、新しい家電品や車や家を購入することで自分の「価値」を具象化することができた。たとえささやかなものであろうと、「将来への希望が持てた」時代だったのであろう。
政治や外交等の水面下では異なるかもしれないが、少なくとも一般庶民にとっては、わかりやすい良い時代だったのだと思う。

父は、少なくとも私の知る限りでは本当によく働く人であった。
私は眠りの浅い子供だったが、いつ目が覚めても仕事部屋には煌々と明かりがつき仕事をしている父の姿があった。
その分、というべきか、芸術方面にはまるで疎くて、私が音楽を聴いているとうるさがったし、高校時代BBCのシェイクスピアシアターを観ていたら「テレビ見てないで早く寝ろ」と叱るし、旅行へ行けば過密スケジュールで史跡を巡って本人のみ満足気にしているし…今は笑い話だけれど、当時は本当に腹立たしく思うこともあった。

それでも、父と私は「歴史好き」という共通点があったから、話す機会もそれなりにあった。子供の頃に教えてもらった戦国武将のエピソード等は、その後それが史実ではないと判ってからも大切な思い出だ。
父は、上杉謙信と関羽と坂本龍馬が好きだった。はっきり言ってミーハーの域を出ない。海音寺潮五郎と池波正太郎と山本周五郎が好きだった。この辺りも極めて普通のオッサンである。
ごり押しの立身出世が出来ず微かに負け組の影がちらつく、古い秩序や権威に憧憬を持ちながらもそれが形作る世界とは相容れない…父の本棚にはそんな物語が多かったように感じるのは、私の勝手な思い込みだろうか。
「日本人は電車に乗るが早いか皆文庫本を開いて読み始める」
と外国人が驚いた時代に働き続けた父の本棚は、文庫本ばかりがぎっしり詰まっていて、最後の日々、父はその殆どを棄ててしまった。
本棚に残っていたのは、もう十年以上前に辞めた仕事関係の事典類と地図類、吉川英治の「三國志」、自分の一族の出身地と言われる町の歴史資料集といったものだったのは少し意外だった。
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by treeintheheart | 2014-01-30 21:06 | 父母の記録
3月1日、私は《セナのピアノ~Close to you》 で目が覚めました。携帯の着信音です。
けれども、枕元の携帯を取り上げた時には、もうメロディは途切れていました。
5時28分…こんな時刻に?
受信履歴を確認しましたが、何も記録が残っていません。
私は、思い出しました。
丁度一週間前の早朝、母は亡くなったのですが、5時17分に介護スタッフの方と話した記録が残っていて、発見されたのが50分頃ですから、5時28分というのは母が亡くなった時刻なのかもしれません。

母と最後に会話したのは、夕食の支度を終えて家族の帰りを待っているときでした。息子が帰って来たので
「また後で電話するね」
と、慌てて電話を切ったのでした。
結局「後で電話する」ことはできず、電話で約束した「水曜か木曜に行く」こともできませんでした。

待ちぼうけが母の背中を押してしまったのでしょうか。
あの朝、救急隊員からの二度目の電話は、
「心臓マッサージ等の蘇生の為の処置をもう辞めていいか、家族の許可が欲しい」
という内容でした。妹や家族と話す時間も与えられないまま私は承諾しました。受話器の向こうで、お医者様やスタッフの会話や器材の音が一頻り聞こえ、やがて静まりました。お医者様の声でしょうか、「6時38分に死亡を確認」した旨を告げる声がしました。
母と対面したのは、それから8時間後でした。

その後、死体検案書から母が亡くなったのは5時半頃だったことが判りました。それでも、私には6時38分という時刻とそれを告げた声、そして
「覚悟はしておりました、ありがとうございました」
と言った自分の声が忘れられないのです。
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by treeintheheart | 2014-01-15 09:58 | 父母の記録
母は月曜日に入院するはずだった。

父が亡くなって以来食事の量が極端に減り、栄養状態が悪くなってしまったためだ。2月に入ってからは殆ど寝たきりになり、電話にも出ない。
父の四十九日の法要も、当日朝「体調が悪いから」と着替えさせられず、施主のいない法要になってしまった。
私も母の元に駆けつけられる状態ではないし、いくら24時間ケア付きとは言っても独りで置いておけないので、しばらく入院することになったのだ。
「こんなふうになってしまって…」
「毎日パパに『早くお迎えに来て』って言ってるの」
そんな母に言うべき言葉も見つからず、身体を擦りながら
「そんなこと言わないで」
と口の中でもごもご言うのが精一杯だが、本当は言いたいことは山ほどある。
「そんなにパパのことを思っているなら、なぜもっとやさしくしてあげなかったの」
こみ上げてくる言葉を必死に押し戻す。

春に骨折し、手術とリハビリを経て漸く退院してきた父に、母は一日中罵詈雑言を浴びせ続けた。
介護付きの高齢者向け施設とは言っても、細かいケアは母がしなければならないし、気難しい父の指図通りに行うのは骨のおれる仕事だっただろう。まして母は多発性骨髄腫と甲状腺疾患を抱えている。本来、自分がケアしてもらう立場である。父の世話はかなりの負担だったに違いない。
そのことを差し引いても、母を介護し看取ることを人生最後の目標にしていた父には辛い状況だった。母の悪口は、娘である私や妹の前ばかりでなく、私や妹の主人、孫、介護スタッフの前でも止むことはなかったからだ。
認知症が骨髄腫とともに進行しているのか、心の箍(タガ)が外れてしまった、としか言いようがない母の言動だった。

父の容態が急変し緊急入院した時、母が「介護スタッフが無理矢理入院させた」と騒ぎ立てるので私は困惑した。
「そんなに悪かったのなら私が気づくはずだ」というのだ。気付いてあげられなかった自分を責める気持ちの裏返しだったのだろう。

年末年始、私と妹は交代で父の病室に詰めた。母が父の状態を理解できているか、私達は少し不安だった。何度お見舞いに連れて行っても、母は「一度も行っていない」という。まるで「あれは夫ではない」と、母の脳が理解を拒んでいるようだった。
危篤に陥った夜は、母の体調が悪くて私達は母を病室に連れて行くのを見合わせざるをえなかった。
「朝になったらママを連れてくるから、それまでがんばって」
そう声をかけ続けたが、結局、息のあるうちに二人を会わせることはできなかった。

父の身体が丁度整えられ終わった頃、夫の押す車椅子に乗った母がやって来た。
「大丈夫?」
駆けよって尋ねると緊張しているのか、ほとんど冷たいと言っていいくらいの声で
「大丈夫」
と応え、そのまま病室に入って行った。

ベッド脇に車椅子が着けられると、母はゆっくり立ち上がってベッドを覗き込んで
「いい顔してる」
と呟いた。
母の手がそっと父の顔に触れた。
「よかった、苦しまなくて」
それから父の頬、顎、額、髪と撫でた。黙したまま何度も何度も撫でていたが、やがて父に語りかけ始めた。
「ありがとう。
わがままな私と
ずっと一緒にいてくれて。
ありがとう
私、幸せでした。」
それから、母はそっと父にキスをした。
何の翳りもない、一瞬の自然な仕草のように。
私は、呆けたようにそれを観ていた。


それから四十九日目の朝、母は逝った。
頑として入院を拒否し、仕方なく様子見をすることになって4日後だった。
知らせを受けて、最初に私が思ったのは、
「ああ、やはり父が連れて行ってしまった」
ということだった。
あの小さなキスは、別れのキスではなくて、新しい始まりを誓うキスだったのかもしれない。
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by treeintheheart | 2014-01-14 15:10 | 父母の記録

年賀状(2013/01/08 09:14)

医師が時刻を告げ、機器類が取り外されたあと、私は夫と義弟に母を迎えに行ってもらった。

朝のやわらかい陽光の中で、動かぬ父と私たち姉妹が残された。私たちは病室の片付けを始めた。病室は暖かく、父の手も温かかった。あまりにも柔らかいので、陽光の中に溶けてしまいそうだった。

こんなにも痩せられるのか、と思うほどその腕は細く、点滴や様々な注射の跡、太腿の手術の傷が、歴戦を物語っていた。
けれども「過酷な戦い」と表現するのは何だか空々しいほど、父は常に前向きだった。
春に入院した時も、退院が二度も延期になり、さぞ気落ちしているだろうと思いつつ病室を覗いたら、意外に明るい表情の父がいた。
「リハビリの時間が増えたと思うことにした。退院までに歩けるように頑張る」
そう言う父の目は文字通り『キラキラして』いた。
普通の人の腕ほどもない脚で歩む一歩はきつかっただろう。脚があるはずの白い布団の下は何も無いように見えた。

病室には私物は殆どなく、片付けは数分で終わってしまった。財布。手帳、筆談用のノート、母の写真…それらにまじって二十枚ほどの年賀状があった。既に父の名が印刷してある。
父は筆まめで、働き盛りには二百枚近い年賀状を出していた。一枚一枚にやや癖のある達筆で必ず一言添えてあった。
見つかった年賀状は、まだ宛名も書かれていなかった。誰に出すつもりだったのだろう。わずか二十枚の年賀状を書く力が既になくなっていた。
選びに選んだ相手だったに違いない。どんなメッセージを書くつもりだったのか、いまとなっては知る術もないけれども、そこには新しい年を生き抜こうとする父の強い意志が感じられた。

昨年は両親に振り回されっぱなしだったが、特に秋以降は意地っ張りで頑固な父の「頑張り」に手を焼いた。
その父が「力尽きて」横たわっている病室は、朝の光が妙に明るくて、馬鹿馬鹿しいくらい明るくて、父はただただ静かに横たわっていた。
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by treeintheheart | 2014-01-14 12:50 | 父母の記録

現状 (2012/05/26 06:51)

今年に入り父が急に寝たきりになり、3月には入院した。同時に母の認知症状が進んで財産管理が覚束なくなった。一時はキャッシュカードが全てなくなったし、父の入院先をタクシーに言い間違える。父と祖父を取り違える。物忘れは重傷で一日3時間位は同じ話、問い合わせの電話に付き合わなければならない。これに心身を安定させる為の体内の全ての物質を使い果たしてしまうのか、私の全身の痙攣や硬直は毎日だ。意識朦朧として全身が冷えていくが、助けを呼ぶこともできない。
それでも毎週末、父母の用事で動かなくてはならない。家族の負担も半端ではない。母は私を非難し続ける。「あの子は信用できない」「あの子は何もしてくれない」と妹に言い「逆らっちゃいけないから」と同調する妹。先日は父の同意を得て預かっていた貴重品類を妹が母に渡してしまい事態は泥沼化…それでも今日も一日予定が詰まっている。
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by treeintheheart | 2014-01-14 04:22 | 父母の記録
まだ10代だった頃から、母が言う愚痴や不平不満に、私が両手を挙げて同調することは、滅多にありませんでした。
私は、母の味方ではなく、いつでも「セイギノミカタ」でした。
血肉をわけた我が子だからこそ洩らした心の内なのに
「それはママが間違っていると思うよ」
はっきり指摘されて嬉しいはずはありません。
たぶん母にとって私は、母が言って欲しいと思っている言葉をあまり言ってあげない薄情な娘だったのでしょう。
子供だった私は
「本当にその人のことが好きなら、その人にとって一番厳しいことを言える人になりなさい」
という母の言葉の表面だけを捉え、そんな関係になるまでには遠くて長い道程があること、相手を思いやり気遣っていることを十分理解してもらう必要があること…そんな当たり前のことを、幾分すっ飛ばしてしまったのでしょうか。

今思うと、私に対するそれが、母の敵意のルーツなのかもしれません。
母の認知症状が進んだ今では、私はいつでも母の味方です。それでも、母にとって私はかなり居心地の悪い存在のようです。母にしてみれば「今さら何を」といったところなのでしょう。

今、私の子供たちは、私の至らない点をズバズバ指摘します。その舌鋒の鋭さに、時には立ち上がれないくらい凹みますが、その一方で幸いなことなのだとも思っています。そして、その言葉を受け止めようとしてボロボロの自分を、時にはこっそり誉めてあげてもいいかな、なんて思ってしまうのです。
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by treeintheheart | 2013-10-08 02:10 | 父母の記録
母は昨日の事をすっかり忘れていました。
私が涙ながらに訴えたことも、自分が言ったひどい言葉も…

持てる限りの勇気を振り絞ったのに、一晩たつと、またいつの間にかスタート地点に立っているのです。
昨日の話し合いはなんだったのか、虚しくてかなしくて…
毎日3時間ははなしているのに、その記憶もなく、『人をこんなところに閉じ込めて、電話の一本もよこさない』と怒る母…
たぶん記憶したくないことは記憶できないのかもしれません。

そして私は自分の愚かさと見通しの甘さに臍を噛む思いです。

そんな状況の中で貴女からのメールを受け取ったのでした。

フランチェスカさん、何も知らないくせにキツイ事をいいますが、お母様の為に貴女の人生があるわけではないのよ。貴方は自分の現状をお母様のせいにしないための選択をしなければ…

私自身、昨日の話し合いに臨むにあたって、本当にそのことを考えました。

昨日、私は母のはいっているマンションの保証人を降りると父母にいいにいったのですが、その経緯はともかく、ずっと相談してきた方から
「これは決して親を捨てることじゃない」
と言われました。私の思いを見越しての言葉だったのでしょうが、それでも結局は折れて帰ってきてしまったのです。
それは引き続き家族に過大な負担をかけることを意味しました。
でも、それは私が選んだことです。父の懇願や母の赤ちゃんがえり的な状態への危惧や恫喝に、これから嫌なことがおきるのを分かっていながら、諦めに似た気持ちで自分の要求を引っ込めたのですが、それでも私の身を削るときめたのは私自身なのでした。
たぶん、どちらに転んでも良い選択とは思えなかったでしょう。でも、プレッシャーに負けて選択した、と思わないようにしようと自分に言い聞かせています…

ごめんなさい、貴方を責めているわけではないのです。ただ、あまりにも状況が似ているので、私が落ちそうになった蟻地獄に落ちてほしくないのです。
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by treeintheheart | 2013-10-05 21:16 | 父母の記録
昨日はご心配下さってありがとう。
お知り合いになったばかりなのにメールをいただいて嬉しかったです。

先日いただいた返信の中にお母様のことがありましたね。読みながら涙が止まらずどうしてもお話しておこうと思いました。
私が心揺さぶられたのは、単にお母様やご家族に同情したからではありません。私自身が難病を二つ持っているからお母様の涙が他人事と思えなかったのです。
昨日の体調不良もそのせいです。お薬が切れたり、色々なことがあって身体にひびくと、身体が硬直してしまうというか、携帯を打つのも辛くなってしまうのです。

ですから現状は親の介護どころではなく私自身が家族中の負担になっています。

同居の義母は病気一つしたことのない人ですから、私が怠け者に見えるらしく、私が一年間入院したときも「私(義母)が大変だから早く退院させろ」と病院に捩込みに来ました。
末の息子からは「なんでまだ死なないんだよ、おまえが死ねばこの家は全部うまくいくんだ」と言われます。おばあちゃん子だからかな、なんて思ってしまう自分の小ささが嫌になります。
実際、子供達には年不相応な負担をかけているのです。僅か17歳の子が耐え切れなくなっても無理はありません。
病気について話したいことはそれなりにあるのですが、人によっては「大袈裟に騒ぎ立てている」「不幸自慢」と感じる方もいらっしゃるので、話しづらいです。
それから息子のことも…優しくて冷酷で愛する憎らしい息子です。いずれお話聞いていただけたら幸いです。

そういうわけで時々体調不良のため返信が遅くなったり、極端に短くなるかもしれませんけどお許しくださいね。
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by treeintheheart | 2013-10-05 14:19 | 父母の記録

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart