カテゴリ:考えていたこと( 16 )

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月読の
光を待ちて
帰りませ
山路は栗の
毬の多きに



かつて、人の足は、栗の毬で傷つくほど弱く繊細だった。
けれども、今私達は栗の毬で足を傷つけることは、滅多にない。それどころか足下の栗を踏みしだいていても気付かないことさえありそうだ。
それは、人の足が硬く頑丈になったからではなく、靴を履くようになったからである。


もし、栗が世界征服を企んだとしたら、栗は自らの毬を強化するだろう。

でも、栗は世界征服なんか企まない。…だろう、たぶん。


栗はともかく、他の動植物は、「世界征服」なんて企むのだろうか?
例えば猿は?自分の群を統率したあと隣山の群を併呑しようと考えることはあるのだろうか?
狼はどうだろう?
ライオンは?

いずれにしても、彼等が世界征服を目論んだら、まず自分の肉体を強化しようとするのではないだろうか?
牙や爪や俊足といった類いのものを強化するのは容易ではないわりに、強化するといっても限界がある。
だから、たとえ世界征服を企んだとしても、せいぜい隣山の群を蹴散らす程度で終わってしまうだろう。

それ以前に、彼等は世界征服なんて夢にさえ見たことがあるまい。…と、私は思うのだが。


けれども、人間は足を鍛えるのではなく、靴を強化する。
吟味と改良を重ね、より強くより快適な、足と一体化した靴を。

それはやがて自転車となり、自動車となり、飛行機となり、人間本来の視力や瞬発力を超えた高みを私達に味あわせてくれる。
しかし、この種の「アシ」を持つことによって、人は、自らの足で歩いていた時にごく自然に眼に入ってきていたもの、記憶に留めていたもののことを、すっかり忘れてしまった。
ハルジオンとヒメジョオンがどう違うのかとか、夏の草いきれの匂いとか、素足に突き刺さる霜柱の冷たさや避けきれずに踏んだ石の痛さとか…
そして勿論、栗の毬の痛さも、である。

こうして、人はいよいよ征服に乗り出す。
高速で移動する彼等の眼から見れば隣国も海峡もほんの一掻きで崩れてしまう砂山に過ぎない。
ちょうど外出しての帰り道、今まで見物したり食事をしたりして過ごした街がとても小さな点となって車窓の外を飛んで行くように、其処に棲む人々の痛みも悲しみも、彼等の記憶から消え去ってしまうのだろう。
そして彼等は進撃を続ける。うっかり靴が脱げてしまうまでは。


『栗の花が落ちる』
と書いて〔つゆり〕と読む。梅雨入りのことである。この響きの美しい苗字は、珍しさも手伝ってライトノヴェルス等で人気があるそうだが、元来は兵庫県の代表的なレアネーム
らしい。室町時代には、現在の神戸市北区辺りの領主として、栗花落勘解由左衛門の名が見られるそうだ。彼と栗花落姫の伝説もなかなか興味深い。


東京では6月7日に梅雨入りしたらしい。ほぼ平年並である。
梅雨入りから三週間。日本各地で、栗の花が落ちた後に青々とした毬(イガ)が元気よく育っていることだろう。

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by treeintheheart | 2017-06-30 21:25 | 考えていたこと

天空の時計

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メッセージをありがとうございました。
苦しい日々、ふと私の古い日記を思い出し、アクセスしてくださったことに胸がつまるような切なさと懐かしさを感じずにいられません。
あの小さなSNSがなくなってから、もう5年も経つのですね。

それでも、あの時書いた私の拙い文章が、少しでも貴方の心に響くものをもっていたのなら、それまで私が過ごした日々も強ち無駄ではなかったのでしょう。

私も貴方と同じように家族から罵られる毎日です。
「毎日毎日みんなに迷惑をかけて、よく生きていられるな」
「早く死んでくれよ、早く!」
「おまえさえいなければ家族みんなが幸せになれるんだ」
夫を知る人にはとても信じられないと思いますが、ある種の発作を起こしたように顔を赤くして怒鳴り続けます。罵声とともにオムツやティッシュボックスが飛んで来ることもあります。強気の言葉で言い返してはいても私の心は萎え、あなたと同じように
「こんな状態になってまで、何故まだ生きているのか」
「何の意味があるのか」
と問いかける毎日です。

そうですね。私の詩も短歌も、空を詠ったものが多いかもしれません。
でも現実は、私の部屋からは空と呼べるほどのものは見えません。周囲の家の屋根に切り取られたただの刻々と色が変わる小さなモニター画面のようです。それでもそれを見ると、日毎の匂いや季節の移ろいを感じ取ることはできます。そして、その小さな小さな窓を通して、私は地平線まで張り渡されたドームのような青空や、燃え崩れ墜ちていく太陽を抱えた夕空や、数知れぬ星々を刺繍した帳(とばり)を幾重にも垂らしたような夜空を懐かしむのです。そういう時、私は自分が宇宙と繋がっているのだと思わずにはいられません。


もう久しく視てはいませんが、満天の星のもとに私達は立っています。昼も夜も。ただ昼は見えないだけ。そして、彼方から視れば、私達の立つ汚泥の塊も、愛らしい光を放つ小さな星です。たとえ星は自らの放つ光を知らず、自らを星だと思わなくても、です。
貴方も私も、この巨大な天空の時計の小さな部品です。目につかぬ小さなネジか歯車か…でもそんなもの一つでも、時を待たずに失えばこの時計は狂うでしょう。
だから、もう少し…私は立ち続けましょう。

よろしければ手を繋ぎ、あなたも…

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by treeintheheart | 2017-03-21 07:57 | 考えていたこと

被災地を旅する友へ

随分ご無理をして行かれたようですが、体調いかがでしょうか。

確かに、其処に行かなければ、住まわなければ判らないことは沢山あると思います。ただ、今から其処で暮らしたところで、「あの日居なかった」ということになるでしょうし、むしろ外からしか見えないものを確り見据えることしか出来ないのだ、と納得することも大切だと思います。

「なぜこの土地を離れないのか」と質問なさったのですか。らしくないというか、らしいと言うべきか…
相手の方が穏やかな方で幸運でしたね。


原発の影響そのものについては地震直後から考えて来ました。
その頃どこかで書いた通り、これから障害を持った子供が生まれる可能性も高いし、それは外で遊ばせないとか、他所のお宅で出されたものを食べないとか、そんな方法で解決出きるものではないと思います。
寧ろ人と人とを分断し、自分だけが助かれば良いという思考パターンを育てるという意味ではマイナスとしか思えません。

その一方で「東北をサポートしよう」という美辞麗句が踊っている。「絆」なんてキャッチフレーズは一種の狡猾さを感じる、と言ったら言い過ぎでしょうか?
確かに、被災地では多くの人が非日常的な、奇跡のような体験をしたに違いない。
けれども、それは特殊な条件のもとで人間の奥深いところから発露されたもので、日常の中に常在させるには無理があるような気がします。
結局、似て非なる安っぽい「絆」が横行し、本当に「繋がった」瞬間を、其所から私たちが汲み上げなければならないものを埋もれさせてしまう。それでなくとも疲弊した被災地の人々の身体を思考を縛り付け、救われる道を閉ざしていないか、と…これは私の想像に過ぎませんが、漠然とした不安を感じるのです。


「被災地の救済」を考えるとき、その土地を救うのか、人を救うのか、は、本来切り離して考えるべきものではないでしょうか。
三宅島や雲仙普賢岳の災害では、側から見ている第三者の殆どが「住民は避難すべき」と考えました。けれども、東北の被災地域の住民に対して、そのような声は薄い。
その理由として、放射能被害の多くが可視的でなく、数値の検証も難しいこともある。
また、被害者の数、被害額、被災した土地、いずれもこれ迄にない規模で受け皿が準備できないという問題もあり得る。
さらに、国策として推進してきた原子力のマイナス面を体現する人とモノが、野放図に拡散していくことは権力を握っている側にとっては得策ではないのかもしれません。

また、イメージ的な問題もあります。幸か不幸か、東北地方は言わば「日本人の心のふるさと」であり、素朴で温かくて今は失われた貴重なものが残っている土地とされてきました。この土地と人を切り離してしまうことは、個々の心のレベルでも多少の抵抗がある人は多い。それが無言の圧力になって最初から検討すらされない事が多々あるとすれば、悪意ではないだけに改めることは難しいでしょう。さらに、イメージが壊れ商業的価値が半減してしまうというのは、私たちの想像以上に重要な要素なのかもしれません。

いずれにしても、様々な悪条件がかたく結びついた結果、被災者も被災地も共に生まれ変わることができずにいる、そんな気がしてならないのですが、現場を見たこともない人間の、ただのセンチメンタリスムの産物かもしれません。

「○○○は元気です」
「私達は此処でちゃんと生きているんです」
「見に来てください。そしてお金を落としていってください」
日本中が元気がないときに、彼等の必死の「元気」がどこまで受け止めてもらえるのか、そしてその何割が彼等の元に投げ返してもらえるのか…考えると胸が痛くなります。
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by treeintheheart | 2013-12-17 10:05 | 考えていたこと

病者の祈り

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ニューヨークにあるリハビリテーション研究所の壁に、一人の患者が書いた「病者の祈り」という詩が書かれています。


 大事をなそうとして
 力を与えて欲しいと神に求めたのに

 慎み深く従順であるようにと
 弱さを授かった

 より偉大なことができるように
 健康を求めたのに

 より良きことができるようにと
 病弱が与えられた

 幸せになろうとして
 富を求めたのに

 賢明であるようにと
 貧困を授かった

 世の人々の賞賛を得ようとして
 権力を求めたのに

 神の前にひざまずくようにと
 弱さを授かった

 人生を享受しようと
 あらゆるものを求めたのに

 あらゆることを喜べるようにと
 生命を授かった

 求めたものは
 一つとして与えられなかったが

 願いはすべて聞き届けられた

 神の意にそわぬ者であるにかかわらず

 心の中のいい表せない祈りは
 すべてかなえられた

 私はあらゆる人の中で
 もっとも豊かに祝福されたのだ




誰とも知らないけれど、同じような荷を背負い、同じように探し求めた人がいる。
それは当たり前のことだけど、こうして具体的な姿を取って現れると、たじろぐものがあります。


これが唯一の答えとは思わないけれど、この言葉をつむぐまてには、いえ、紡ぎ出した後も、どれほど眠れぬ夜を過ごしたのだろう。


それにしても、いつも、なんとタイムリーに立ち現れることか。
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by treeintheheart | 2013-11-22 12:20 | 考えていたこと

ストーカー殺人事件に

三鷹で起きたストーカー殺人に震えるような怒りを覚えます。
犯人は生命を奪っただけでなく、大量のプライベートな映像を投稿することで、被害者とその家族の尊厳を永久に奪いました。

さらに問題を深刻にしているのは、その動画にアクセスする人々です。削除しても削除してもきりがないのは、低劣な好奇心に突き動かされるままに無責任な行動をとる人が数多いるからでしょう。彼等の存在が無ければ、犯人は復讐の手段として画像を投稿することを選らばなかったはずです。
つまり、私達の行動によっては、犯人の意図を扶けることになるのです。


「そういう映像を撮ること自体いかがなものか」
と被害者の非を指摘しようとする方も在るかと思います。
勿論、道徳観、倫理観は様々あって当然です。私自身もそのような映像が存在することを「当然」とは思えません。
けれども、それは最もプライベートな場面での行動であって、公に非難されるべき種類のものではないはずです。
どんな高潔な、謹厳な人でも、最もプライベートな時間まで全てを曝して汚点ひとつ無い、と言える人は居ないでしょう。また、居たらいたで、別の意味で問題があると思いますし。
まして、彼女は充溢する力とそれをコントロール出来ない未熟さを併せ持つ、人生で最も煌めく時期にいたのです。誰もが振り返って、眩しさに目を細め、微苦笑を禁じ得ない時期に。

そして、一つだけ確実なのは、その映像が撮られた時、彼女は犯人に心を開いていた、信頼していた、ということです。信じるに足りない利己的な男を!それだけに二重に痛ましく思うのです。

映像の日々から、別れ、ストーカー化し、殺人に至るまでには、当然ながら色々な紆余曲折があり、犯人にも言い分があるでしょう。「新事実」が新たになり彼に有利な事実も発見されるのかも知れません。

けれども、彼がプライベートな映像を流した行為がそれで消えるわけではありません。彼は自分の犯した罪の重さを心底から思い知るべきです。彼のような男にそれが出来るか、甚だ疑問ですが。
彼は、既に遠い存在となりつつあった彼女を、最も卑怯な愚劣な方法で、ネットの海へ押し出しました。奇跡が起きて、彼が心から罪を悔いたとしても、彼女の映像は、今度こそ永久に手の届かない存在となって、ネットの海を漂い続けるのです。
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by treeintheheart | 2013-10-15 13:57 | 考えていたこと

答え (2011/09/17 12:31)

学生のときに先生がある女性の話をなさいました。

「その方は優秀で優しい看護師で、お医者さまを扶けて多くの患者さんを救い、沢山の人から感謝されました。やがて看護師長となり、直接患者さんと関わることは少なくなりましたが、多くの後輩、部下を指導し、尊敬を集め、憧れの的でした。歳をとり、引退なさってからは、今や看護師長となった後輩達が相談にきたり、講演会等で経験を話したりして看護の質の向上に、勤めました。彼女が名前も、その存在さえ知らない人が、彼女の著書や講演によって励まされ力付けられました。

しかし、忙し過ぎる生活が祟ったのか彼女は突然倒れ意識不明になりました。今まで彼女が救ってきた多くの方が手を尽くしたかいあって、まもなく彼女は昏睡状態から醒めましたが、残念なことに、もはや口を利くことも手足を動かすこともできませんでした。その状態が長く続きやがて静かに息をひきとりましたが、この時期、彼女は最も役に立つ働きをしたのです。彼女の存在そのものが救いでした。
なぜだかわかりますか?
皆さんにはまだわからないと思います。でも、どうかこのお話を覚えておいてください。そして考え続けてください。」

今、古いノートはあるものの、なぜこんなに鮮明に覚えているのでしょう。生意気な学生でしたし、いかにも作り話めいて反発を覚えたことまで甦ります。その時全く答えが思い付かなかったのが悔しかったからでしょうか。後々この問い掛けが必要になると予感したからでしょうか。

ここ十年このお話のことを考えています。まだ答えは見つかりません。いいえ軽々に答えと思ってはいけないのだと思うようになりました。

私の他にもこのお話を必要とされている方がいるような気がして載せてみました。
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by treeintheheart | 2013-09-25 16:22 | 考えていたこと
平凡な毎日を過ごすなかで、私達は常に何かを信じながら行動している。天気予報を信じ、電車の正確な運転を信じ、ショップのスタッフを信じ、円を信じ銀行を信じ…という具合である。

意識的であれ無意識にであれ、表面的な特徴や既存の常識に沿って「信じるべきか否か」を判断し振り分けた上で行動し思考する。これで大抵のことはクリアできる。
付け加えるとすれば、アンテナの感度を上げたりスキルを磨く努力によって成功はより確実になる。以前書いたpositive thinking の出番でもある。


ところが、人生にはそれだけでは越えられない壁にぶつかる時がある。
今まで信じてきたものが全て、音を立てて崩れていく一方で、逆に、今まで無縁だったもの、否定的に捉えてきたものと向き合うことを余儀なくされる…そういう時に、私達は、もう一度
「『信じる』とはどういうことだったのか」
と考えざるをえなくなる。少なくとも私はそうだった。


少し極端だが、相手が敵対するグループであれ凶悪犯であれ、人間(特に信じがたいもの)を信じる、とは、
「そのものの本質が善へ向かう力があると信じること」
だと私は思う。
それは個体の意識的なものでなく、人間の奥深くに組み込まれたシステムのようなもの…私はいつも「向光性」という言葉を連想する。理科の実験で光に向かって植物が伸びる、あの性質のことだ。

人間が現実の中でフジツボみたいなものにびっしりと被われていても、その本質は担保されていて人の深いところに潜んでいるだけなのではないだろうか…
「つまり性善説とか予定調和ということだろう」と言われたら私は首を横に振るだろうが、それらとはどうちがうのか上手く説明出来ない。
最も近いのは、辻邦生著「春の戴冠」の中にある。「春」「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリの絵が、陰影でなく非現実的な、くっきりとした線描で描かれた理由について、
「本来の唯一本の線を見出してそれをなぞるのだ」
と言っているくだりだ。
だから、例えば、真面目とか優しいとか嘘をつかないといった様々な美徳は「信じる」ための要素なのだろうが、たとえ相手がそうでないとしても、人は時にそれらの不在を超えて「信じる」のだ、と思う。

…と思う一方で、それを実行したら現実社会では生きていけないことも知っている。
だからといって、全て否定し、諦め、それを賢いと言明することも私の中の何かが受け付けない。

信じるに足るものを信じることは当たり前だ。フィルムを逆送りして観るように、先ず「信じる」ことで本来の姿が立ち顕れることもあるのではないか。

愚かで夢想にすぎない考えかもしれないけれど、信じるとは、硬く土に被われた遺跡のレリーフを復元させるように本来の姿を見出だすことだと思う。
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by treeintheheart | 2013-08-07 17:25 | 考えていたこと

鈍感力(2012/08/27 22:20)

数年前から〇〇力という言葉が色々なところで目につきますが、ごく最近、ある方が私には「鈍感力」が必要なのでは、と言う意味のことをおっしゃいました。

この数ヶ月、両親のことで心身ともに少し疲れがたまっていましたから、気を楽にするようにとアドバイスしてくださったのでしょう。
けれども、私はその時、「でも…」とおもいました。

私は元々鈍感なところがあって、きっと今までたくさんの人を傷つけてきたと思うのです。今でもふと昔の言動を思い出して「なぜあの時」と臍を噛むような想いをすることがあります。だから、「これ以上鈍感になってどうするの?」と思ってしまったのです。
鈍感になるということは、ある意味で人を気遣うより自分を守ることを選ぶということではないでしょうか?放っておいても多くの人間は自分を選びがちなもの。…もし意識的に鈍感になってしまったら、弱くて小さな者は踏み潰されてしまうか、必死の努力を嘲られて終わってしまうでしょう…樹上の蟻のように。
そして、もしそれが当たり前になってしまったら、やがて強い人にとっても生きにくい世の中になってしまうような気がするのです。
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by treeintheheart | 2013-07-28 21:59 | 考えていたこと

Positive thinking

よくPositive thinking〉 と言われるけれど、実際のところ、何を以てポジティブとするのか、は結構難しいような気がする。
それは必ず当事者の価値観や文化的背景と結び付いているものだし、そういうものは千差万別だから。

次に、ポジティブにかんがえようという呼び掛けには、ほとんどの場合「良い結果を得る為に」という明確な目的がある。それ自体は当たり前のことなのだけれど、問題は誰にとっての良い結果なのか、という点だ。一歩間違えば、他者への配慮に欠けたり、問題を無かったことにして先へ進むような、「臭いものにフタ」的な考え方的な考え方に陥ってしまわないか、と危ういものを感じてしまう。

確かに物事を別の角度から見ると、それまで不幸、不運と感じていたことが実は意外と幸運なことだったと知るような経験は、私達誰もが持っている。その「発見」を偶然や他者からの指摘に頼るのではなく、自ら求めて発想の感度をあげる、モチベーションを上げる、そうすることで日々を闘い抜くパワーを自らの内面に取り込む。
それがpositive thinking というものなのだろう。

だとすれば、ポジティブに考えるには、今、自分が置かれている状況を正確に把握することが必要になる。ポジティブを発見することは、ネガティブを見据えることに繋がっていくのだ。
Positive thinking という言葉から、私はなんとなく「お気楽」なイメージを持っていたのだけれど、意外に精神的重労働なのかもしれない。

Positive thinking を提唱するのは、実業家、スポーツ選手、モデル等、日々を明確な闘いの中に生きている人が多いような気がする。自らを鍛え高めていくことを常に要求される時、この思考法が有効だというのは興味深い。Positive thinkingは意外と猛々しい側面を持っているのかもしれない。


政権が替わって以来、日本を覆っていた閉塞感が不思議なほどに薄らいで何となくポジティブだ。政策が実を結ぶ前から支持率は高い。それを後ろ楯に政府も強気なメッセージを送り続けているけれど…気の小さい私は心配になってしまう。信じていいの?大丈夫?そのPositive thinking は本物…?
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by treeintheheart | 2013-07-20 09:10 | 考えていたこと

愛する人を守るため

《愛する人を守る》ため、多くの映画やドラマの中で、ヒーローたちは立ち上がる。
マッチョでワイルドなヒーローはもちろん、引きこもりがちな弱々しいヒーローでさえ、愛する人(々)の危機の前に、時には内なる不思議な力が目覚めちゃったりして、彼の世界と愛する人を奇跡的に救ってしまうのが、一つのパターンである。極端な時にはほぼ全てが滅んで愛し合う二人だけ(?)が生き残って「新世界」に向けて旅立ったりして、
「いいの?ホントにいいの?」
と呟きたくなってしまう。

でも、それは二次元の話だ。笑っていればいいじゃない。現実にそんなことはあり得ないし…現実がソリッドな分、愛と夢をどこかで補充しなくちゃ。

…でも、ほんとうに?


かつて多くの戦争は、「愛する祖国と家族を守れ!」と兵士達を鼓舞してきた。
「愛する人を守れ」 は、誰にも逆らい様のない旗印だからだ。
けれども、愛する人を守りたいのは私達の側だけではなくて、先方も同じはず。だからこそ、双方とも譲れないのだ。
これからも、世界中のあらゆる国々、グループが、「自分達の戦いは《愛する人を守るため》だ」と主張するだろう。
今、日本はその一つになろうとしているのだろうか。


日本の夏は、まるで戦争月間だ。オキナワやヒロシマが随所で語られ、ドラマや映画が人々に「歴史の真実」を問いかける。
しかし、8月の終わりとともに、全ての関心はもうひとつの悲劇へと移行する。9月は初日から「防災」に埋め尽くされ、戦争にまつわる課題は次回へと持ち越される。印象に残るのは非常にセンチメンタルな部分…千羽鶴や人気タレントの演じたラストシーンだけだったりする。
この状況で当事者以外は戦争について考え続けるのは難しい。
それだけに、一種の洗脳、イメージ操作あるいは刷り込みしやすい状態にあるような気がするのは、考えすぎだろうか。



私達が子供のころ、日本全体を覆っていた反戦感情はもっと強かった。
それは、戦争体験者が社会を動かしている世代の大部分を占めていたからかもしれない。
戦争というものが、人間の生活や社会を、人間そのものを、どんなに変えてしまうか、破壊してしまうかを身を持って経験していた人々の厭戦感情は、内面の深いところから出ていただけに揺るぎなかった。

けれども、戦争を経験していない私達は、戦争というものをとても軽く考えているような気がする。
戦争は何も解決しない(せいぜい次のステップへ押し出すことはあっても)のに、喩えて言えば、今まで使ったことのない、ラスボス用のレアなアイテムのように、縺れた糸を閃光とともに解決してくれるように思っているような気がしてならない。

実際には、子供達の、あるいはPTAや仕事上の小さな対立でさえ解決が難しいのに、なぜ戦争が何かを解決するように錯覚してしまうのだろう。


「愛する人を守る」ことが悪いのではない。どのように守るのか、を考えていくことが大切なのだ。

我が子であれ他人の子であれ、表面的な美辞麗句に無意識のうちに影響を受け、悲劇へと駆り立てられる駒になって欲しくない…一人の母として、そう思わずにはいられない。

夏が来る度に繰り返されてきた平和の誓いだが、今年の夏は「いつもとは違う」予感がしてならない…
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by treeintheheart | 2013-07-19 08:32 | 考えていたこと

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart