カテゴリ:文化と言葉と…( 10 )

私の大好きな指揮者、西本智美さんとイルミナートフィル&イルミナート合唱団が、今年もヴァチカン国際音楽祭に招聘されました。
ヴェルディの「レクイエム」を演奏します。イタリアを代表する作曲家であるヴェルディを並み居るイタリアのオーケストラや合唱団を差し置いて、日本人が演奏するって、すごいことだと思います。しかも、レクイエムはここでは初めての演奏だそうです。
すごぉい!!!(≧∇≦)
…って、すごいばかりですが、他の言葉が出てきません。

さらに感動したのは、サンピエトロのミサで「オラショ」を再演するよう要請があったことです。


オラショとは、隠れキリシタンに伝わる祈りの歌です。
1975年(昭和50年)5月、当時、立教大学で教えていらっしゃった皆川達夫先生が生月島で運命的といっていい出会いをします。
400年間秘かに伝えられてきた歌は、もはや御詠歌とも呪文ともつかない不思議なメロディと意味不明の歌詞に変化していました。歌詞を書くことはもちろん禁じられていましたし、一年間のうち春のある時期だけ向かい合って布団を被り伝えた、というのですから正確に伝わらなかったのは無理もありません。むしろ、隠れキリシタンの人々がどれほど必死にオラショを護ってきたかを思うと、言葉を失います。

先生はオラショを録音し、楽譜に起こしてヨーロッパ中を探しました。オラショを歌っている方々もどこの国の言葉か知らず、ただ「唐言葉」と思っていたのですが、先生は「ラテン語の訛ったものてはないか」と考えたのでした。

やがて、生月島の三つの歌オラショのうち、『らおだて』と『なじょう』とが、それぞれラテン語聖歌の『ラウダーテ・ドミヌム Laudate Dominum (主をたたえよ=詩編一一六編)』と『ヌンク・ディミッティス Nunc dimittis (今こそしもべを=シメオンの賛歌)』に基づくことがわかりました。しかし、最後に残った『ぐるりよざ』はなかなか原曲がわからず、探し始めてから7年目の1982年(昭和57年)10月、スペインのマドリッドの図書館で、漸くその原曲が入っている聖歌集を見つけることができました。曲名は『オ・グロリオザ・ドミナ O gloriosa Domina (栄光の聖母よ)』。
この曲は、今も世界中で歌われている標準的な聖歌ではなくて、十六世紀のスペインの一地方だけで歌われていたローカル聖歌でした。それが、その地域出身の宣教師によって400年前に日本にもたらされたのです。そして隠れキリシタン達が命がけで守ってくれた結果、私達の時代にまで残ったのでした。
もちろん、キリシタン達は私達に伝えることが目的だったわけではありません。長い辛い弾圧の日々を、これらの訳のわからない不思議な音楽が支え続けたのでした。
皆川先生があるところでこのように書いていらっしゃったのを最近見つけましたので、ご紹介しておきます。

《音楽は、まるで花火のように一瞬の間に生起して消滅してしまう、はかなくて力のないもののように思われがちだが、実は隠れキリシタンたちがほぼ四百年も生き続けることを支え、また流産しかかった胎児の生命を救うほどの強靭な力を内に蔵していたのである。大学受験時のわたくしが医学をとるか音楽をとるかを迷ったあげく、「音楽も、人の心の生命を救うことが出来るはずだ」と信じたことは、決して間違いでも誤りでもなかった。》
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by treeintheheart | 2014-03-08 01:54 | 文化と言葉と…

魂という字の中に

「魂」という漢字の中には鬼が居るのですね。「云う」+「鬼」で「魂」

人の心の奥底に住み、私たちに言葉を紡がせるものは「鬼」なのでしょうか。

そうかもしれません。


節分に、人は
「鬼は外、福は内」
と豆を撒きます。 鬼は福の敵で悪いやつだから追い払い、替わりに福を呼び込むのですね。
すると、翌日には立春。
春は希望や幸運を象徴する季節、若さや軽やかさや率直さが似合う季節です。 もう、鬼の出る幕はありません。
追い払われた鬼は、いったいどこで何をしているのでしょう。いつの間に私たちの中に住み着いて、性懲りなくものをいい、翌年の節分でまた追い払われるのでしょう。

そうまでして鬼は何を言いたいのでしょう。
鬼の言いたいこと、ちゃんと聴かねばならないような気がしてきました。


専門家によれば、鬼は「隠(おぬ)」が転じたもので、死霊や異世界の目に見えない存在、まつろわぬ(従順ではない)者を指していたのが、山岳信仰(天狗)や仏教(羅刹)のイメージも加わって今日のような姿形になったそうです。
いずれにしても、(自分達の)理解を超えた、自分達より力のある存在を、怖がり遠ざけたいと願う心が、「鬼」というものの名付け親と言ってよいかもしれません。

そういえば、優しい妻が強い所を見せると「鬼嫁」と呼ばれるのは、その典型かしら。

「自分達とは違う」「理解できない」「自分達の思い通りにならない」のが「鬼」ならば、もしかしたら誰もが誰かにとっての「鬼」になる瞬間があるのでしょうね。私も…あなたも。少し怖いことですが。



人の中には鬼がすむのなら、鬼も含めて受け入れ、愛する強さが欲しい。
それは、相当な強さが必要だろうけれども。

でも、人並み外れて強いことも、「鬼」と言いますね。

では、鬼を受け入れるということは、時に自分も鬼になるということなのでしょうか。

確かに、そういう一面もあるのでしょう。人を愛する時、多くの人が変わるように。鬼を愛せば鬼になる…というより、自分の中の鬼に気づくだけかもしれません。



……

…わかったぁ
こんなことばかり言ってるからウチにはなかなか福がやって来ないんだわ(∋_∈)
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by treeintheheart | 2014-02-05 18:27 | 文化と言葉と…
「寒中の木の芽」
      内村鑑三


 春の枝に花あり
 夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり
 冬の枝に慰めあり

 花散りて後に
 葉落ちて後に
 果失せて後に
 芽は枝に顕はる      

 嗚呼 憂いに沈むものよ
 嗚呼 不幸をかこつものよ
 嗚呼 希望の失せしものよ
 春陽の期近し

 春の枝に花あり
 夏の枝に葉あり
 秋の枝に果あり
 冬の枝に慰めあり


明治時代の知識人でクリスチャンとして有名な内村鑑三の詩です。
クリスチャンにとって愛、希望、信仰を持つことはとても大切なことだと、遠い昔に聞きました。


春の花、夏の葉、秋の果…それらに比して
一見、何も持っていないように見えるけれど、芽を育んでいるのは冬なのだ。

信じよ、慴れるな
必ず希望はある

内村鑑三の想いは、深く静かに私の心に沁みいって、やがて根を張り、挫けやすい私を支えてくれる言葉のひとつになりそうです。

とはいえ不幸と困難の中にも希望を持ち続けることは、決して容易いことではないですよね…。
殊に自分が誠意をこめて最善を尽くしたあげくに、誤解や裏切りにあった時の絶望感は、言葉では表し難いものがあります。

人智の限界を感じた時に私達は屡々自然に目を向ける。空や海の果てしない広がりや変化の多様さに自らの小ささを思い、一方で小さな儚い生命の持つ強靭さや揺るぎ無さに畏敬を感じる…たぶん私たちのほとんどが、そういう経験をしているのではないでしょうか。

普段は自然のことなどまるで無関心か利用するばかりの人間にさえ、自然は分け隔てなくその最良のものを惜しみなく見せてくれます。此方に何も強いることなく。そこから何を掴みとるかは私達にゆだねられているのでしょう。
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by treeintheheart | 2013-12-29 08:59 | 文化と言葉と…
私のささやかなブログ訪ねてくださる皆さま、今回は、随分理屈っぽい生意気なことを書きます。
苦々しく思われたり退屈だったら、ごめんなさい。
でも、何の知識も知恵もない私が、ずっと感じてきたことを少しまとめてみましたので、皆さまにも聞いていただきたかったのです。
私は今は学生ではなく、ある程度歳も重ねました。ですから身近にいて教え導いてくださるのは皆さましかいません。そこで、皆さまの厳しい目に私の拙い文章を曝そうと、ない勇気を振り絞りました。
前置きが長くなりましたが、どうかよろしくお願いします。


    ∞∞∞∞∞∞∞


毎年、文化の日には沢山の人が様々な賞を受賞する。
しかし、ごくおおざっぱにいって日本は文化に対し冷たい国である。

芸術であれスポーツであれ、一角の者となるまでは自助努力に任せられる。まさか芸術は貧困と周囲の無理解の中で育つイメージが未だにあるのだろうか。
世界的な水準からみて日本の企業や富裕層は、今も昔も文化の育成発展にたいする貢献が少ない。(これは貴族意識や選民思想とも関わってくるものだと思うが、ここでは省く。)
企業、富裕層ばかりでなく、一般人も文化に対しての意識は偏っている。賞やメダルをとると持て囃し、彼の偉業や育てられ方を微に入り細に入りレポートするくせに、そういう評価の明らかでない物に対しては無関心だ。一体彼らが誉めそやしているものは、作品そのものなのか賞やメダルなのか。
というより、明確で一般的な評価がされないものにたいしては、「どのようなリアクションをとればよいのかわからない」とといったところかもしれない。

多くの親が「我が子の才能を発掘し伸ばしたい」と様々な習い事に通わせるが、その目指すものが本当に才能や芸術そのものか、それともそれがもたらすはずの人気や名誉や富にあるのか、厳しく己に問う親は少ないだろう。
というより、才能の発掘や育成が自助努力に任せられている以上、多くの親は「採算」を度外視できないのである。
だが、はっきりいって「採算」は「芸術」の芯の部分とは最も相容れないものだ。だからこそ、潤沢な資金の提供が望まれるのである。

しかし、多くの企業、資産家、行政にとって、投資ではなく、「見返りを期待せずに資金を提供すること」は優先順位が極めて低い。
多くの大企業が「そんなゆとりはない」というが、世界で五本指に入る経済大国の大企業がほんとうにそうなら、一体誰なら「ゆとりがある」のだろう。

その裏には、「文化」というものは、生活とは遊離しており、人にとって必需品でもなく、資金を注ぎ込んでも無駄な贅沢品だという認識を持っているからではないだろうか。(企業イメージのCMとは真反対だが)


広義での「文化」(芸術、スポーツ、建築等含む)が軽んじられる原因のひとつに日本人が個性、人と違うことを嫌う国民であることがある。


日本では個性、人と違うことを保持しようと思ったら大なり小なり何かを捨てなければならない。
また、日本人は何かを一並びにして順列を明らかにすることが好きである。(いわゆる「三大〇〇」がその良い例だ。)しかし文化、少なくとも芸術は本来順列を付けがたいものである。
この二つの傾向が顕著に表れているのが、教育の分野である。「どのような人間、社会であることが望ましいか」が問われ、その実現に向けて活動する場である以上、当然のことだ。

文化に深く関わるものに絞ってごく表面的検証に留めるが、多くの学校や幼稚園で少なくとも数年前に行われていた「同程度のタイムの子供達が一並びにゴールする徒競走」や「主役が大勢いる劇」や「異議が出ないディスカッション」は、将来にわたって個性を潰し、文化を軽んじ、身近では虐めを助長する一因となる。


それらに共通するのは同質化への肯定である。異質なものが補い合い或いは融合した結果ではない。「和を以って貴しとなす」のは良いことだが、初めから均質な物の和を図ったところでたかが知れている。(余談だが、日本人が交渉事に弱い一因はここにあるのではないかと思う。)

同質化を指向する体質が最も簡単な形で表れるのが、議論の場である。多くの場合、様々な可能性を検証し最善を選ぶのが目的であるから、色々な意見が出され厳しく検討されたほうが良いはずだ。
時には「自分は賛同するわけではないが…」とことわりつつでも異論を紹介したほうがよい場合さえあるかもしれない。
実際アメリカの授業では「同意見です」はタブーで何かしらバラエティを持たせるか、理由説明等を付け加えることが求められるようだ。
しかし日本では、誰かの意見に対立する意見を述べることは、意見そのものだけでなく、その意見の持ち主をも批判する行為とも受け取られかねない。

また、「主役が何人もいる劇」の裏には、総合芸術であり、豊かな学習の場である劇の制作と発表において、主役を頂点とするランク付けを持ち込んでいるわけで、そのことがもたらす損失は計り知れない。


これでは異質なものを受け入れる素地は育たない。「みんなちがってみんないい」が掛け声だけでなく、子供時代から浸透するようになれば、虐め等の問題も新しい局面を迎えるだろうことは容易に想像できるはずだ。


今年、多くの怒りと悲しみが日本全土を被った。余裕のないこのような時にこそ、文化的な作品や活動が必要とされることは、被災地で多くのコンサートが開かれていることからも推測できるだろう。

なぜなら文化は、決して贅沢でも気まぐれな手慰みでもなく人の営みの一部でありその精神を根底から支え、生きる気力を生み出す源だからである。

困難な時代だからこそ、文化に対する手厚い保護と、育成に力を尽くしてほしい。長い目でみれば、それが私達の子供世代への大きな贈り物となると思う。


     ∞∞∞∞∞∞∞


元々の文章は震災の年に書いたのですが、あれから社会では様々な事件があり、我が家にも大きな変化がいくつかありました。けれども、この社会はちっとも変わっていない、変わろうとすらしていない、というのが正直な気持ちです。変わっていれば、もしかしたら防げた不幸や悲劇もあったかもしれません。けれども、社会や時代を嘆くより、まずは自らが、とも。



最後に、機会があったら、どうかレオ=レオニの「フレデリック」をよんでください。

辛抱強くお付き合いいただき、ありがとうございました。
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by treeintheheart | 2013-11-04 14:23 | 文化と言葉と…
学生時代には、私はヴェネツィア派の絵画が好きだった。

ルネッサンスの絵画は変革の時代に相応しく様々な画風が混在しているが、なかでも異彩を放っているのがヴェネツィア派である。

当時の経済大国ヴェネツィアの精神をそのまま絵に写したような絵画は、華麗で俗っぽくて、これみよがしでひたすらに美しい。柔らかい光に満ちた世界は、印象派にも似ている。
魅惑的な姿態の女性を描きながら、海から立ち上る霧が光を撹乱してしまうのか、描線は曖昧だ。まるで言質を与えない取引上手のヴェネツィア商人のように。

同時代のフィレンツェでは清澄な凜とした空気が見る者の部屋にながれこんでくるような端正な絵画が描かれている。カテリーナ・スフォルツァやイザベッラ・デステの肖像は美しいけれど冗談を言ったら処刑されてしまいそうな怖さを持っている。
フィレンツェだって華やかな経済大国なのに、この違いは何だろう。人生に対する姿勢かしらF65B.gif
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by treeintheheart | 2013-10-09 12:45 | 文化と言葉と…
10年以上前のこの超大作のDVDを引っ張り出して息子がみている。そのうえAmazonで中古のゲームソフトを買ってやり始めた。台詞もあらかた覚えているので友達とゲームしながら何役も演じ続け爆笑の渦(どうせなら英語で覚えればいいのに…)そんなハッピーな台詞はないはずだけど…(因みにゲーム自体はつまらないらしい)



とは言うものの、『ザ・ロード・オブ・ザ・リング』は、確かに人生で困難にぶつかった時に役立ちそうな言葉の宝庫ではある。
原作者は3人の息子を持ちサンタクロースに成り代わって毎年挿絵入りの手紙を書いたような人だ。作品のメッセージ性の高さも頷ける。


ところで映画では登場しないが、原作にはトム・ボンバディルという小人(?)がでてくる。彼は川の精とともに森の奥に住み、最初の困難にぶつかった主人公達を救いもてなす。

特筆すべきは彼が冥王サウロンと同等の力を持っており、主人公達の世界を破滅から救うことができる、ということだ。
けれども彼は「世界を救う」ことなんかに興味がないし、自分の住んでいる森は言わば「結界」で守られているので影響を受けないのだから世界なんか滅んでもいい、むしろ滅んでしまえと思っている。

いくら力を持っていても、それを使う意思がなければ宝の持ち腐れということなのだろうか、と、最初私は思った。
けれども、ある方が「太古の精霊のような」とトムを評されているのを見かけて、ふと思った。
主人公達にとってこの上ない大事件である中つ国の滅亡であるが、トムは既にもう何度も同様のことを見てきているのではないか。絶望的な位に長いトムのスパンでは、世界の興亡すら、幾度となく繰り返されてきた出来事の一つに過ぎないのだろうか。

トムがそのような存在だとすれば、彼の視点から見てしまうと、フロドの苦悩も、アラゴルンの再生も、ガラドリエルの高貴も、どんなにか色褪せて見えるのだろう。トムは、何人ものフロドを観てきたのだろうか。何億もの呻きを聞いてきたのだろうか。何もせずに?
色褪せて見えるのは中つ国やモルドールの住人たちばかりでなく、振り返ればトム自体、板塀に張り付いたまま風になぶられる古いポスターのようだ。
なんと絶望的な世界を設定したものだろう。
光瀬龍の『百億の昼 千億の夜』にも似たようなモチーフが使われている。ある意味、最終的な解決法である時間をさえ敵に回すような手法だ。


以上は、あくまでも私の想像に過ぎない。多分、トールキンが聞いたらひっくり返るくらい驚くだろうな。
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by treeintheheart | 2013-10-03 09:53 | 文化と言葉と…
あるblogで、まどみちおさんが「ぞうさん」について次のようにおっしゃっていると知りました。


「『ぞうさん、おはながながいのね』と言われたら馬鹿にされたか、けなされたと思うのが普通です。
けれども、その子象さんは、まるで誉められたかのように『そうよ、大好きなおかあさんも、ながいのよ』と答えたんです。それは自分が象であることは素晴らしいことだと思っているからです。

この地上に存在するすべてのものは、植物でも動物でも、それぞれ個性があります。 個性が違うということは、素晴らしいことです。素晴らしくないものは一つとしてない。しかも、すべてのものが自分の力でそこにいるのではなく、あるものによって存在させられている、守られていると私は思っています。」  



ああ、すごいな…
やっぱり『まどみちお』さんだ…
廣くて深い心をそのまま照り返したような言葉に触れて、此方のがさついた心も落ち着いて澄んでくるような気がしました。
そのブログには、いつ、どんな状況でおっしゃった言葉なのか、何も書かれていなかったのが残念ですが、私はとても嬉しくなりました。

それから…
7月29日の日記で私自身が書いた「ぞうさん」に対する解釈が、めちゃくちゃ的外れでないことが分かったのも、嬉しくなった理由の一つです。

ちょっと手前味噌ですケド。
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by treeintheheart | 2013-09-11 15:25 | 文化と言葉と…
「人間の真価は、その人が死んだとき、何を為したかではなく、彼が生きていたとき、何を為そうとしたかで決まる」。
これは、イギリスの詩人「ロバート・ブラウン」の言葉です。
作家・山本周五郎は自分の作品のテーマの根底に流すテーマとして、この言葉を大切にしていたそうです。

と、「高倉健のダイレクトメッセージ」で、健さんが以上の様なことを綴っていたと友人の日記にありました。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞


人が、人間社会の中で生きる限り、好むと好まざるに関わらず「他人に評価されてなんぼ」です。
「我為すことは我のみぞ知る」
と嘯いた高杉晋作さえも、周囲からかなりの援助や協力を受けていました。
つまり、他人に評価されなければ彼の「奇行」も成り立たなかったのです。

でも、一人の人間が、何を為そうとしたか、何を夢見ていたか、その芯のところが誰にわかるというのでしょう。
それを掬いとることなど、たとえ文学や映像作品と謂えどできるのでしょうか。
ただの滑稽な勘違いではないのか。
「人の真価」というものがそこで決まる、というのは、一見尤もらしいけれども、詭弁ではないのか。
せっかくの素晴らしい方の素晴らしい言葉に「イチャモンつける」ようで心苦しいのですが、「人の真価」という言葉遣いにはある種の欺瞞というか、軽さを感じてしまいます。
なぜなら、それが文学や映像作品に関わって語られているからです。

私達が日常生活の中で当たり前だと思いながら過ごしている事柄、行動、価値観…そういった物を別の視点や思考法(?)から構築し直して、時には全く別のものを顕在化して見せること。それが、文学や映像作品の存在意義のひとつなのではないか、と私は思うのです。
だから文学や映像作品の作り手は、自分が表現しようとしているものを信じている。いえ、信じなければ一歩も前に進めるものではない。
たとえ誰もが酷評し、無価値だ有害だと言ったとしても、自分は、今生まれようとしているものの価値を知っている。この作品は生まれるべくして生まれるのだ、という声を聴く。そんな経験をした製作者は少なくないはずです。
だからこそ、たとえどんなに「平凡な日常を淡々と描いた」ものであっても、或る意味、それが決して「何処にでもある」「共通の」ものでなく、如何に「かけがえのない」「唯一無二」のものであるか、を描いているものです。
つまり、文学にせよ映像作品にせよ、一般的な通念や価値観の縛りから抜け出たところに「真価」が存在するものなのではないでしょうか。

しかし、その営みを、「人の真価」という言葉と結び付けた時、それは既成概念や一般論やその他、作品が脱け出してきた巣穴に戻るような逆行が起きてくるような気がします。
少し乱暴な言い方になりますが、「善く生きる、とは何か?」という命題を借りて、一種の自主規制が起きる可能性を感じるのです。
作品中に描かれた人物が、「人の真価」というメジャーで計り始められた時、その人物が為そうとしていたこと、夢見ていたことは、むしろ決して表現できない手の届かないところへ行ってしまわざるを得ないのではないでしょうか。

一方で、文学も映像作品も、創り手のメッセージを伝え人々の共感を呼び起こそうとした時、それは仕方のない妥協なのかもしれません。読んで、観てもらってなんぼ…そこに文学や映像作品の限界があるのかもしれません。
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by treeintheheart | 2013-08-23 11:30 | 文化と言葉と…

そこに吹く風は…

ジブリの「風立ちぬ」の公開とともに、堀辰雄の
「風立ちぬ いざいきめやも」
が誤訳であるとかないとか方々で書かれていて、何だか気の毒になってしまう。
「誤訳でもいいじゃないの」
と、古典を読むのは好きだけど文法は苦手な私などは思ってしまう。
堀辰雄という人は、教養人で古典もフランス文学も十分理解していた人らしい。その彼が
「このシーンにはこの言葉でなくちゃならない」
と思ったことのほうが大事なのではないだろうか。

原典であるポール・ヴァレリーの「海辺の墓地」は、さすがフランスを代表する知の巨人らしい詩である。(話題になっているのは24行目)豊かな比喩表現満載で、ナルシスティックな高揚感と、物凄いスピードで膨れ上がっていく虚無感のせめぎあいのような感じがする。どちらかというと猛々しい骨太な詩だ。そこに吹く風は、高原をサアーッと吹きわたる風ではなくて、岸壁にしがみつく者を叩き落とそうとする、間断なく吹き荒れる激しい風のようだ。
サナトリウムでの日々、不治の病を抱えたヒロイン、水彩画のような純愛物語とは一見結びつかないように思える。けれども、結核と戦う彼女の内面では、激しい風が吹いていたに違いない。
「生きるだろうか、いや生きはしない」だったか、正確な訳はともかく、その反語表現は、生と死の狭間で激しく吹きまくられる命と呼応しているように感じた。
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by treeintheheart | 2013-08-04 10:05 | 文化と言葉と…

童謡ってすごい①

シリーズになるかどうかはわからないけれど、書きたいことは沢山あるので、とりあえず①と付けてみました。


以前にもどこかで書いたかもしれないけれど、私は、まどみちおさんが好きです。そして、まどみちおさんの名作「ぞうさん」が…


ぞうさん ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも
ながいのよ

ぞうさん ぞうさん
だあれが すきなの
あのね かあさんが
すきなのよ


まどみちおさんは、この童謡を作るために膨大な時間をかけたそうですが、改めて歌詞を読み、口ずさむと、「ああ…」って溜め息が出ちゃうくらいすごい。

童謡なのに、あんまり理屈っぽいことを言うのは、それこそ野暮ってモンですが、あえて言っちゃいますと…

簡単なやさしいことば、歌いやすそうな柔らかい音のつながり、すぐにおぼえられる少ない言葉数、短さ…本当に小さな子供の目線で作られてるんだなあ、と今更ながら気づきました。
それに、内容だってドラマチックです。
幼い子供のぞうさんが「おはなが長いのね」と、象の外見的特徴を誉められ(?)ます。するとぞうさんは「かあさんもながいのよ」と誇らしげに答えます。ぞうさんにとっては「お母さんと同じであること」がきっととても大事なことで、そこを誉められたのがスゴく嬉しかったんでしょうね。

さて二番です。「だれがすきなの」と尋ねられたぞうさんは、「あのね」と恥ずかしそうに答えます。大切な宝物を「ちょっとだけね」と特別に見せてくれる時のように「かあさんが好きなのよ」と打ち明けるのです。

ぞうさんとお話ししているのは、いったい誰なんでしょう。
ぞうさんの外側、誰もが認める特徴からはじめて、内面にまで入っていって大事な秘密を聞き出しちゃうなんて、凄腕のカウンセラーみたい。
…なんて、
だんだん妄想めいて来ちゃいましたが…( ̄∀ ̄)

まどみちおさんという人は、よく他人の相談にのってあげていたようです。人の悩みを聴いていると手の皮が剥けた、と何かに書いてありました。なんとなく聖痕を連想しました。キリストが磔刑にされた時に釘打たれた両手足、脇腹から血が吹き出るというアレです。本当に真剣に相手の身になって話を聞いてあげていたのでしょうね。

そんな方だったからこそ、あの童謡が作れたんだと、改めて思いました。
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by treeintheheart | 2013-07-29 17:02 | 文化と言葉と…

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart