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レオナルド・ダ・ヴィンチの通行許可証 (2013/10/26 01:12)

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チェーザレ・ボルジア・デ・フランチャ、
ロマーニャ公爵、ヴァランス公爵、
アドリア・ピオンビーノの領主、
教会軍総司令官より、


私の領国内の、この書状を目にするすべての領主、軍司令官、傭兵、役人、兵士、家臣たちに告げる。

「私の最も親しい友人,建築技術総監督レオナルド・ダ・ヴィンチのために,あらゆる地域の自由通行と,彼に対する好意的な接待を命ずる。私から,公国内の全城塞の視察の任務を課せられた彼には,彼の任務を遂行するに必要な,あらゆる助力が十分に与えられねばならない。さらに,公国内のあらゆる城塞,要塞,施設,土木工事すべては,それを施行する間に,またそれを続行しながらも,技術者たちは,レオナルド・ダ・ヴィンチ総監督と協議し,彼の指示に従うことを命ずる。もしこの私の命に反するような行動に出たものは,いかに私が好意を持っているものであろうとも,私からの非常な立腹をこうむることを覚悟するように。」


法王猊下の18年目の年、
ロマーニャ公爵叙爵2年目の年
 ロマーニャ公爵が記す



(本文部分は「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」 第二部 剣 第八章からお借りしました。)


 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ 


写真は、チェーザレ・ボルジアが、レオナルド・ダ・ヴィンチのために発行した、領国内を自由に通行する為の許可証である。

この通行許可証の発行日は1502年8月となっている。レオナルド・ダ・ヴィンチは50歳、許可証を発行したチェーザレ・ボルジアは27歳。
パトロンであったスフォルツァ家のイル・モーロが失脚し、失業中だったレオナルドがどういう経緯でチェーザレのもとで働くようになったのか、手元に何の資料もないので私にはわからない。

ただ、手紙は、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった君主が、各地の現場監督、代官の類いに送ったものにしては、非常に緻密というか、あらゆる場合を想定して指示を与えていることに驚かずにいられなかった。

どちらかというと寡黙な、「指示は一言のみ」、のようなイメージを勝手に作り上げていたのだが、彼はいつもこんな風に細かく指示を出していたのだろうか。
それとも、これはかなり珍しいケースで、それだけレオナルドを信頼し期待していた、ということなのだろうか。

とにかくレオナルドが自由に動けるように、あらゆる便宜を図っているのである。チェーザレはレオナルドの才能をよほど高くかっていたのだろう。


一方のレオナルドはどうだったのだろうか。

今のところ、レオナルドのメモ類からチェーザレに関する記述は発見されていないらしい。
二人が面識があったという証拠は何もない。

けれども、この通行証が破棄されることなく現代まで伝わっていること自体が、私達の想像を掻き立てるに充分だろう。
通行証は、レオナルドの愛弟子であり遺言執行人であったフランチェスコ・メルツィの実家に保管されていた。
つまり、チェーザレの失脚後も、レオナルドはこの通行証を持ち歩いていた可能性が高いことになる。

「天才は天才を知る」という。
チェーザレの領国内にレオナルドが滞在したのは、わずか8ヶ月ほどだが、レオナルドにとっても、それは忘れ難い日々だったのではないたろうか。


【おまけ】

>>
レオナルドがチェーザレ・ボルジアのもとを去ったのは、チェーザレの失脚が最大の理由だと思いますが、詳しいことはわかりません。
当時レオナルドの故国フィレンツェはチェーザレと傭兵契約を結んでいました。だから、レオナルドも自分の意思ではなく、優秀なエンジニアをフィレンツェ政府が派遣した、ということだったかもしれません。だとすれば、チェーザレの勢いに翳りが見えたら故国に引き上げるのは自然な行動と言っていいかもしれません。

>>
私などよりずっと造詣が深く、高い見識をお持ちの方が、ご自身のブログで件の通行証を翻訳していらっしゃいました。
『私の親愛なるそして優秀な建築家であり軍事技術家であるレオナルド・(ダ)・ヴィンチにこの書状を持たせ、領国内の建築中の要塞・建築物の監督を依頼した。
現場にいるものは、すべて彼の命に従うことを命じる。
彼と彼の随行者の要請や判断に従ってその望むものを用意し、いかなる通行税もとってはならない。
友好的な態度と敬意を持って彼に接し、彼の望むあらゆる試み、測量を行わせること。
彼が要請するのであれば、人材・資金を惜しまず提供すること。彼にわが領内における建築の権限を委託したのであるから、ほかの建築技師たちは彼の意思に従い、彼の確認なしには任務を遂行してはならない。
もしこの命に反するようなことがあれば、その者は私の憤りをこうむることを覚悟すること。』
塩野訳より直訳に近いせいか、粘着質と言っていいくらいしつこいのがおわかりになると思います。
常々このように指示を出していたとしたら、レミーロ・デラ・ロルカという家臣が「独断専行の振る舞い」が多く、征服地に恐怖政治を行なった、として処刑されているのは、かなり疑わしいゾ、とか…
色々な想像してしまいました。
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by treeintheheart | 2014-09-19 23:21 | 歴史

リチャードに涙する(2013/02/14 02:18)

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2012年8月にレスターで一体の遺骨が発見された。
当初、女性かもしれないと思われたほど華奢な遺骨は、後ろ手に縛られ、身の丈にあわない小さな歪な形の穴に頭を北に埋められていた。頭の下に敷物もなく、真っ直ぐに姿勢を整えてもらうことすらできなかったらしい。

翌年の2月4日に「レスターで発見された遺体がリチャードⅢ世のものであると確認された」とレスター大学の考古学チームが発表した。
「遺体を安置した後、その態勢を変えることもなく慌ただしく墓が閉じられたのは、遺体が晒され、ひどい状態にあったとする記録によって説明がつくだろう」と研究者は指摘する。
頭蓋骨に、戦いによるものとみられる10か所の傷があり、顔への2か所の傷、肋骨と臀部にも1か所ずつある傷は王が鎧をはぎ取られた後のものであり、それは王への無礼を意図しているとも推測されている。


これらのニュースによって、日本ですらこの不幸な王の名前は一般名詞化した。「昔から」彼を知るファン、マニア、研究者、ヲタ…まぁ、どんな名前でも良いけれど、この現象に複雑な思いでいるのだろう。もちろん、私も含めて。

でも、プランタジネット朝最期の王であった彼が、死後数百年にわたり不遇だったのはやむを得ないことだ。遺体がほぼ完璧な形で残っていたことのほうが、むしろ奇跡と言っていい。まるで、彼が生前、語りたくても語れなかったことを伝えるために顕れたとしか思えないくらいだ。

傴でびっこ、という伝説的な彼の風貌が事実だったことも今回明らかになった。
しかも、思春期特発性脊椎側弯症(AHS)という病気によるもので、10歳以降に突然発病しているらしいことも。
当時、正常に生まれた人の身体が激しい痛みとともに急に捩曲がっていったら、人々は何かの天罰か、少なくとも神からのメッセージだと思っただろう。彼はどれほど苦悩したことか。
それでも彼は、英国史上一二を争う美貌の王となった兄と共に薔薇戦争を戦い抜いてきた。
『忠誠が我を縛る』
というモットーそのままに、彼は危急にあっても、決して兄を裏切らず、常に最前線で戦った。その道程はどれほど困難に満ちていたか。


史実の彼が、本当はどんな人物だったのか、長い長い議論に終止符が打たれることはないだろう。

肖像画の彼は、どれも重そうな衣装をきて、沈痛な顔をして細い指を組んだり指輪を弄ったりしている。遠くを見つめているのか、何かを失ってしまって目の前のことはどうでもいいようななげやりな表情にも見える。

この肖像を描いた画家は何処までリチャードを知っていたのだろう。
リチャードの死後、15世紀末に描かれたもので「失われたオリジナル」があると言われているが、たとえリチャードの生前に肖像を依頼された画家がいたとしても、その生まれ育った環境から推測すれば、リチャードは内面を容易に見せる男ではなかっただろう。しかし、画家は明らかに彼の内面にある何か非常に苦いものを感じ取って、私たちに伝えようとしているのだ。

シェイクスピアの描くリチャードは、自由闊達でパワフルだ。彼は、自分が他人より優れていると思うもの全てを駆使して運命に挑んで行く。その姿は、時代を越え国境を越えて人々を魅了する。彼は、少なくとも表面的には自分を肯定しようとしている。
けれども、その生きざまは、現存するどの肖像画とも相容れないような気がする。肖像画の中に私たちが見出だすのは、寧ろ劇中でリチャードが演じてみせる謹厳実直で信仰深い貴族の姿そのままだ。シェイクスピアの創作と言ってしまえばそれまでだが、あの人物像のルーツは一体どこにあるのだろう。


彼の死後、華奢な身体につけられた傷に思いを馳せる時、彼が控えめな善良な人物だったと判明した場合よりも、シェイクスピアの描くような人物だった場合のほうが、寧ろ彼の背負っていたものは重かったような気がする。
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by treeintheheart | 2014-05-04 08:33 | 歴史

この1ヶ月(20110817/20120722)

歴史ブームは一時より下火になったようだけれど、それでも多くの人が《歴史》に興味があると言っているのは嬉しい。
たとえ、その人の中で、伊達政宗が中井和宏さんの声を持ち、源義朝が今にもウィーンでタクトを振りそうであっても。

大抵の場合、誰かが願望込めて(都合よく)描いたイメージに惹かれるところから、私たちは歴史の森に足を踏み入れる。その時点で、実際に生きていた当人達とは異なるものだ、と多くの人は承知している。そのままゲームキャラ的なイメージと戯れているのも十分楽しいのに、その内の何%かは、本物の彼らを探したいという甘美な誘惑に嬉々として捕らえられ森の奥へと姿を消して行く…。

なあんて言うほど大げさなものではないが、この1ヶ月ほど歴史好きの方のブログを読みまくっていた。(何しろ文章を書いたり携帯を打ったりできないくらいに体力が落ちてしまったので、他にやれることがなかったのです)
ヨーロッパ中世史を中心に読んでいたのだが、私の学生時代と違って今はなんと情報が入手しやすいのだろう。恵まれているなあ、と感動する一方で、読み捨てた漫画が高い評価を受けてレア物扱いされているのに苦笑したり、…心身の状態があまり余裕がなかったにも拘わらず楽しいひとときを過ごせた。


「歴史の真実は闇の中」とよく言われる。確かに時間の経過や時の権力によって散逸した史料も多いだろう。しかし、権力者はいずれは交代するし、時間がたてば逆に新しい証拠が現れてくることもある。
殷の紂王、イングランドのリチャード三世のような例を挙げるまでもなく、暴君と伝えられていながら明君であったことを裏付ける資料が後世発見されることは少なくない。

何が真実か、を見極めるためには、本当は地道な気の遠くなるような作業が必要だ。でも、私達は素人である。そんなことは専門家にちゃっかり任せて、その上澄みをいただいて「真相究明ごっこ」を楽しむことができる。
幸い、歴史上の人物が書いた著作物、書簡類にあたることが今は比較的容易にできる。現代語訳、日本語訳も意外に出版されているし読んでみると結構面白いので、取っつきやすい足掛かりだ。
最近は骨格等からその人物の声を復元再生する技術も格段に進歩している。
いっそご本人の声でお決まりの口癖や辞世の句等を再現したDVDなんて出ないかなあ…でも、誰が買うんだろ?
そうそう、中身については投票して決めてくれるとうれしいなあ…等々
ベッドの上で妄想ばかりしている1ヶ月でした。
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by treeintheheart | 2014-04-29 00:10 | 歴史