もし、栗が世界征服を企んだら

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月読の
光を待ちて
帰りませ
山路は栗の
毬の多きに



かつて、人の足は、栗の毬で傷つくほど弱く繊細だった。
けれども、今私達は栗の毬で足を傷つけることは、滅多にない。それどころか足下の栗を踏みしだいていても気付かないことさえありそうだ。
それは、人の足が硬く頑丈になったからではなく、靴を履くようになったからである。


もし、栗が世界征服を企んだとしたら、栗は自らの毬を強化するだろう。

でも、栗は世界征服なんか企まない。…だろう、たぶん。


栗はともかく、他の動植物は、「世界征服」なんて企むのだろうか?
例えば猿は?自分の群を統率したあと隣山の群を併呑しようと考えることはあるのだろうか?
狼はどうだろう?
ライオンは?

いずれにしても、彼等が世界征服を目論んだら、まず自分の肉体を強化しようとするのではないだろうか?
牙や爪や俊足といった類いのものを強化するのは容易ではないわりに、強化するといっても限界がある。
だから、たとえ世界征服を企んだとしても、せいぜい隣山の群を蹴散らす程度で終わってしまうだろう。

それ以前に、彼等は世界征服なんて夢にさえ見たことがあるまい。…と、私は思うのだが。


けれども、人間は足を鍛えるのではなく、靴を強化する。
吟味と改良を重ね、より強くより快適な、足と一体化した靴を。

それはやがて自転車となり、自動車となり、飛行機となり、人間本来の視力や瞬発力を超えた高みを私達に味あわせてくれる。
しかし、この種の「アシ」を持つことによって、人は、自らの足で歩いていた時にごく自然に眼に入ってきていたもの、記憶に留めていたもののことを、すっかり忘れてしまった。
ハルジオンとヒメジョオンがどう違うのかとか、夏の草いきれの匂いとか、素足に突き刺さる霜柱の冷たさや避けきれずに踏んだ石の痛さとか…
そして勿論、栗の毬の痛さも、である。

こうして、人はいよいよ征服に乗り出す。
高速で移動する彼等の眼から見れば隣国も海峡もほんの一掻きで崩れてしまう砂山に過ぎない。
ちょうど外出しての帰り道、今まで見物したり食事をしたりして過ごした街がとても小さな点となって車窓の外を飛んで行くように、其処に棲む人々の痛みも悲しみも、彼等の記憶から消え去ってしまうのだろう。
そして彼等は進撃を続ける。うっかり靴が脱げてしまうまでは。


『栗の花が落ちる』
と書いて〔つゆり〕と読む。梅雨入りのことである。この響きの美しい苗字は、珍しさも手伝ってライトノヴェルス等で人気があるそうだが、元来は兵庫県の代表的なレアネーム
らしい。室町時代には、現在の神戸市北区辺りの領主として、栗花落勘解由左衛門の名が見られるそうだ。彼と栗花落姫の伝説もなかなか興味深い。


東京では6月7日に梅雨入りしたらしい。ほぼ平年並である。
梅雨入りから三週間。日本各地で、栗の花が落ちた後に青々とした毬(イガ)が元気よく育っていることだろう。

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by treeintheheart | 2017-06-30 21:25 | 考えていたこと

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart