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屁理屈ですが見逃してください(20120723改訂版)

「人間の真価は、その人が死んだとき、何を為したかではなく、彼が生きていたとき、何を為そうとしたかで決まる」。
これは、イギリスの詩人「ロバート・ブラウン」の言葉です。
作家・山本周五郎は自分の作品のテーマの根底に流すテーマとして、この言葉を大切にしていたそうです。

と、「高倉健のダイレクトメッセージ」で、健さんが以上の様なことを綴っていたと友人の日記にありました。

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人が、人間社会の中で生きる限り、好むと好まざるに関わらず「他人に評価されてなんぼ」です。
「我為すことは我のみぞ知る」
と嘯いた高杉晋作さえも、周囲からかなりの援助や協力を受けていました。
つまり、他人に評価されなければ彼の「奇行」も成り立たなかったのです。

でも、一人の人間が、何を為そうとしたか、何を夢見ていたか、その芯のところが誰にわかるというのでしょう。
それを掬いとることなど、たとえ文学や映像作品と謂えどできるのでしょうか。
ただの滑稽な勘違いではないのか。
「人の真価」というものがそこで決まる、というのは、一見尤もらしいけれども、詭弁ではないのか。
せっかくの素晴らしい方の素晴らしい言葉に「イチャモンつける」ようで心苦しいのですが、「人の真価」という言葉遣いにはある種の欺瞞というか、軽さを感じてしまいます。
なぜなら、それが文学や映像作品に関わって語られているからです。

私達が日常生活の中で当たり前だと思いながら過ごしている事柄、行動、価値観…そういった物を別の視点や思考法(?)から構築し直して、時には全く別のものを顕在化して見せること。それが、文学や映像作品の存在意義のひとつなのではないか、と私は思うのです。
だから文学や映像作品の作り手は、自分が表現しようとしているものを信じている。いえ、信じなければ一歩も前に進めるものではない。
たとえ誰もが酷評し、無価値だ有害だと言ったとしても、自分は、今生まれようとしているものの価値を知っている。この作品は生まれるべくして生まれるのだ、という声を聴く。そんな経験をした製作者は少なくないはずです。
だからこそ、たとえどんなに「平凡な日常を淡々と描いた」ものであっても、或る意味、それが決して「何処にでもある」「共通の」ものでなく、如何に「かけがえのない」「唯一無二」のものであるか、を描いているものです。
つまり、文学にせよ映像作品にせよ、一般的な通念や価値観の縛りから抜け出たところに「真価」が存在するものなのではないでしょうか。

しかし、その営みを、「人の真価」という言葉と結び付けた時、それは既成概念や一般論やその他、作品が脱け出してきた巣穴に戻るような逆行が起きてくるような気がします。
少し乱暴な言い方になりますが、「善く生きる、とは何か?」という命題を借りて、一種の自主規制が起きる可能性を感じるのです。
作品中に描かれた人物が、「人の真価」というメジャーで計り始められた時、その人物が為そうとしていたこと、夢見ていたことは、むしろ決して表現できない手の届かないところへ行ってしまわざるを得ないのではないでしょうか。

一方で、文学も映像作品も、創り手のメッセージを伝え人々の共感を呼び起こそうとした時、それは仕方のない妥協なのかもしれません。読んで、観てもらってなんぼ…そこに文学や映像作品の限界があるのかもしれません。
by treeintheheart | 2013-08-23 11:30 | 文化と言葉と…

魂の奥に下りて行って不思議な扉を開けてみてください。幾千年の時を経た大樹の息づく深い森。滴る光、湧き零れる水。そこに満ちる声の囁きを聴ける人になりたい。人の魂が、この星とそこに息づく数多の生命と、深いところで繋がっていることを感じとりたい。カリスマ性なんか微塵もない主婦Aの「闘病」「子育て」「考えごと」の記録…になるはず


by treeintheheart